THE TREE OF LIFE ~生命の木~

世界日記 (本編)


   
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祭りには、多くの美人の姿があった。年に一度の大舞台で、彼女達(彼等)は惜しげもなくその類稀な美貌を披露した。訪れた観衆の目を虜にする優雅かつ大胆な美しさ・・・。眩いばかりの光を放つ、力強くも愛らしい笑顔・・・。まさに生きた芸術と呼ぶに相応しい祭り美人、彼女達(彼等)はその豊満な体で異性の下半身を刺激するだけでなく、その輝く瞳で春の訪れを呼び寄せる。そう、欧州の宴を華麗に彩る祭り美人の存在には、来訪を拒む頑固な春でも跪くのだ。

個性というのは人それぞれ違った魅力をかもし出す。当然、それを比較するなんて事は非常に愚かしい行為だと言える。しかし、・・・僕は愚かな人間だ。だから敢えて、彼女達(彼等)の個性を比べてみたい。今年僕が見てきた祭り美人の中で、誰が最も美しかったのかを。


祭り美人コンテスト2006
※1:どうか皆さんも審査にご参加ください。
※2:写真をクリックすれば、いつもより大きいサイズでご覧になれます。

エントリーNr:01
スポーツの祭典、トリノオリンピック(イタリア)代表
アジアの島国から来た、氷上の流星
名前:大菅小百合
年齢:25歳(僕とタメ)
国籍:日本
出身地:北海道標津郡標津町
性別:女性
僕の一言コメント:好きな国がドイツだって・・・。
美人1

エントリーNr:02
スポーツの祭典、トリノオリンピック(イタリア)代表
心優しき元小結
名前:舞の海(本名:長尾秀平)
年齢:38歳
国籍:日本
出身地:青森県西津軽郡鯵ヶ沢町
性別:男性
僕の一言コメント:大菅選手との記念撮影、彼がシャッター押してくれたんです。
美人2

エントリーNr:03
ニースのカーニバル(フランス)、花のパレード代表
満開の笑顔、選ばれし花の女王
名前:未登録
年齢:未登録
国籍:フランス
出身地:未登録
性別:女性
僕の一言コメント:ちょっぴりテレ屋さん。
美人3

エントリーNr:04
ニースのカーニバル(フランス)、花のパレード代表
華麗なる花さばき、愛の配達人
名前:未登録
年齢:未登録
国籍:未登録
出身地:未登録
性別:女性
僕の一言コメント:花を一生懸命配ってました。
美人4

エントリーNr:05
マントンのカーニバル(フランス)、レモン祭り代表
爽やかな色気、麗しき三人娘
名前:三人とも未登録
年齢:三人とも未登録
国籍:三人ともフランス
出身地:三人とも未登録
性別:三人とも女性
僕の一言コメント:インドではないんやねぇ。
美人5

エントリーNr:06
マントンのカーニバル(フランス)、レモン祭り代表
未成熟の果実、緊張気味な姫君
名前:四人とも未登録
年齢:四人ともハタチ未満
国籍:四人ともフランス
出身地:四人とも未登録
性別:四人とも女性
僕の一言コメント:若いってエエなぁ。
美人6

エントリーNr:07
世界三大祭りの一つ、ヴェネツィアの仮面カーニバル(イタリア)代表
幼すぎる色香、モンローの瞳
名前:ザビーナ
年齢:秘密
国籍:イタリア
出身地:ボローニャ
性別:女性
僕の一言コメント:年齢を聞いたら「ヒミツ」とは・・・。さすが未来のマリリン・モンロー。
美人7

エントリーNr:08
世界三大祭りの一つ、ヴェネツィアの仮面カーニバル(イタリア)代表
発展途上の美貌、愛すべき爽やか姉妹
名前:キアラ(妹・左)、アントネッラ(姉・右)
年齢:7歳(妹・左)、10歳(姉・右)
国籍:二人ともイタリア
出身地:二人ともナポリ
性別:二人とも女性
僕の一言コメント:8年後が楽しみやねぇ。
美人8

エントリーNr:09
世界三大祭りの一つ、ヴェネツィアの仮面カーニバル(イタリア)代表
神をも魅了する、気位高き仮面の女王
名前:ミケラ・メルゲッティ
年齢:17歳
国籍:イタリア
出身地:オーストリアのクラーゲンフルト(Klagenfurt)
性別:女性
僕の一言コメント:ム、ムチで僕をシバ▲¥×■<?●×@!!
美人9

エントリーNr:10
イタリア最大規模の大宴、ヴィアレッジョのカーニバル代表
まさに美麗の集合体、男を酔わせる魔性の舞
名前:全員未登録
年齢:全員未登録
国籍:全員未登録
出身地:全員未登録
性別:全員女性
僕の一言コメント:見えそうで見えないパ▲¥×■<?●×@!!
美人10

エントリーNr:11
イタリア最大規模の大宴、ヴィアレッジョのカーニバル代表
愛らしき笑顔、眠れる森の美少女
名前:エレナ
年齢:未登録
国籍:イタリア
出身地:ヴィアレッジョ
性別:女性
僕の一言コメント:もう10年ほど眠っていてください。必ず起こしに来ますから・・・。
美人11

オランダきっての大宴会、マーストリヒトのカーニバル代表
※該当者なし
中途半端な大騒ぎ、マンハイムのカーニバル(ドイツ)代表
※該当者なし
アレマン風、ロットヴァイルのファスネット(ドイツ)代表
※該当者なし

エントリーNr:12
アレマン風、フィッリンゲンのファスネット(ドイツ)代表
落ち着いた大人の色気、黒い森が育てた美人姉妹
名前:マヌエラ(姉・左)、ティナ(妹・右)・シェーファー
年齢:3●歳(姉・左)、3●歳(妹・右) ※お二人の名誉のため一部非公開
国籍:ドイツ
出身地:フィッリンゲン
性別:女性
僕の一言コメント:お二人ともママさんですが、本当におキレイでした。
美人12

エントリーNr:13
タイマツ行列で有名な、リースタールのファスネット(スイス)代表
力強くも愛らしい、熱いハートの健康美
名前:二人とも未登録
年齢:二人とも未登録
国籍:二人とも未登録
出身地:二人とも未登録
性別:二人とも女性
僕の一言コメント:必死に戦う強い女性・・・、惹かれます。
美人13

エントリーNr:14
僕が最も愛するカーニバル、バーズラー・ファスナハト(スイス)代表
誰もが惹かれる、愛の道化師
名前:未登録・シュミット ※聞き取れず一部未登録
年齢:未登録
国籍:スイス
出身地:バーゼル
性別:男性
僕の一言コメント:カワイすぎる!!
美人14



以上の14名で終了です。
皆さんはどの祭り美人がお好みですか?
僕が独断と偏見で決めた優勝者は・・・

2006年2月14日~3月6日の思い出
proudjapanese
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ヨーロッパの中でも一風変わったカーニバル、それがバーズラー・ファスナハトBasler Fasnacht)だ。薔薇の月曜日の一週間後から三日間、バーゼルの旧市街はドラムとピッコロの音色に包まれる。暗闇の中で不気味に揺れる巨大提灯の灯火、仮装というより変装に近い参加者達によるパレード・・・。それが、数々の祭りを見てきた僕を最も感動させたカーニバル・・・。

バーズラー1

↑全員集合!!

2006年3月6日月曜日深夜1時過ぎ、リースタールからバーゼルに移動した僕は、マクドナルド(この時期24時間営業)で時間を潰していた。まだ気が遠くなるほど寒いバーゼル、宴の開始を告げる午前4時まで外にいるのはあまりに辛かったからだ。数時間マクドにお世話になった後、僕はマルクト広場に向った。この祭りの名物「提灯行列」を最高の場所から眺めたかったからだ。バーゼルの旧市街、静かに雪が降っていた・・・。そして、暗闇の遙か彼方から徐々に近づいてくる提灯の灯りとピッコロの音色、それを耳にした瞬間から、僕にとって三年連続三度目のバーズラー・ファスナハトが始まった・・・。

バーズラー2

↑早朝から流れ出すピッコロの音色

真っ暗な旧市街の大通りをゆっくりと進む提灯行列・・・。この日のために用意した派手な衣装を身に纏い、ただひたすら演奏を続けながら街を徘徊する参加者達・・・。寒さに耐えながらでも充分見るに値する光景、僕はただひたすら一人でそれを見ていた。辺りが薄っすら明るくなってきた頃、広場の隅でマスクを外し休憩しているオジサン達の姿は、この祭りが長い間愛されてきた伝統的な行事であることを教えてくれた。こうして午前中の時間は、騒がしいカーニバルのイメージとは相反し、落ち着いた雰囲気を保ったまま流れていった。

バーズラー3

↑提灯行列

午後になった途端、先程までとは打って変わって大騒ぎ!!様々な楽器を用いての大演奏パレードが皆を奮い立たせ、多種多彩なワゴン車がゆっくりと観衆の中を進む。ワゴン車からは花束や果物、お菓子や玩具等がバラ撒かれ、子供達(だけでなく、いい歳をしたオジサンやオバサンも)がそれに飛びつく。しかしあまり調子に乗り過ぎると、紙吹雪をお見舞いされることもある(むしろそっちの方が多いかも)・・・。まさに誰もが思い描いているカーニバルそのものの活気がそこにはあった。

バーズラー4

↑午後のパレード

バーズラー6

↑お菓子に飛び付くオバサン

バーズラー・ファスナハトには、ベネツィアの仮面カーニバルのような品の良さもなければ、ニースで行われた花のパレードほどの美しさもない。ヴィアレッジョほどスケールが大きい訳でもなく、マントンのような展示会も存在しない。ただやはり僕は、ここのカーニバルが一番好きだ。伝統行事としての祭りにちょっとしたオフザケを加えたカーニバル・・・。幻想的な午前中の行列と華やかな午後のパレード、そしてそのギャップ・・・。訪れた者を不思議な気持ちにさせるその雰囲気こそが最大の魅力なのだろう。

バーズラー7

↑鬼のような伝統的な仮面

バーズラー5

↑鶏インフルエンザを皮肉ったオフザケ

マンハイムに帰る電車の中は、バーゼルの旧市街とは違い異常に静かだった。まるで先程までの時間が嘘であったかのように・・・。去年も一昨年もそうだったが、この瞬間僕は無性に淋しくなる。大音量で聴いていたウォークマンの電池が切れた時の淋しさによく似ている。「来年、もう僕はドイツにいないかもしれない」、そう考えると今年は余計淋しく感じた。しかし今は21世紀、「またいつだって来れる!これを最後のバーズラー・ファスナハトになんかせーへんで!!」こうして、金に輝くブラゲッデ(Blaggedde)のおかげで得たお菓子を頬張りながら、僕は四度目の訪問を誓ったのだった。

2006年3月6日の思い出
proudjapanese

カーニバル(謝肉祭)はお祭りだ。年に一度の大イベントとして、ヨーロッパ各地で様々な催しが開かれる。毎年この時期を楽しみにしている祭り好きの僕は、今年もイタリアやフランス、オランダ等のカーニバルを満喫してきた。その全ての国々(街々)にはそれぞれ独自の個性があり、楽しむだけではなく、地元の人々との触れ合い等を通じて、その土地が持つ温もりや伝統を垣間見る事ができた。しかし最近では、絶大な経済効果をお目当てに、多くの街のカーニバルが、観光客を喜ばせる為の派手さだけを競うようになってきている事実も否めない。そういった理由から、今年の僕は開催中で最も盛り上がる薔薇の月曜日を、ドイツの田舎街で過ごしてきた。ニースでもヴェネツィアでもケルンでもなく、ドイツの黒い森で・・・。

アレマン風カーニバル5

↑オシャレな出窓が印象的な街「ロットヴァイルRottweil)」

ロットヴァイル、南西ドイツに位置するその小さな街には、古くから黒い森と民俗に守られてきた伝統的なカーニバルが存在した。上部ドナウ地方には、かつて西ゲルマンの一種族であるアレマン人が居住していた事から、それはアレマン風ファスネットAlemannisches Fasnet)と呼ばれるようになった。本来ドイツの標準語ではカーニバルをファストナハト(Fastnacht)と言い、この「Fast」は「絶食」を意味する。英語で朝食を意味する「breakfast」が、「断食を破る」という所からきているのと同じ原理だ。また、Fastnachtの「Nacht」は「夜」を指すのではなく、この場合は「前日」という訳し方が正しい。断食が始まる直前に行われる無礼講のお祭りカーニバル、ドイツ語ではそれを「断食の前日(Fastnacht)」と呼ぶ。Fasnetとは、Fastnachtの「t」を省き、南西ドイツ独特の訛りによって生み出された、アレマン地方独自の呼び方であると言われている。更に、呼び方だけでなく祭りの目的や内容も他とは明らかに違う。宗教的なケルンやマインツ(ライン地方)等の謝肉祭とは異なり、そこには冬の厄払いや豊穣を祈るアレマン民族の原始的な姿が、トボケた仮面をかぶった愚者達の姿があった。

アレマン風カーニバル1

↑冬の象徴「ロバ(に変装した人)」を鞭で追い払う

ホーッホホホ!!
朝8時、奇妙な高笑いが大勢の見物客から湧き上がり、冬の象徴であるロバを追い払う鞭の音が鳴り出した瞬間、アレマン風ファスネット名物「愚者の跳躍Narrensprung)」が始まった。この祭りの事をインターネットを通じて知った時、Narrensprungというドイツ語の行事名をどう理解したらよいのか全く分からなかった。愚者の跳躍と直訳してはみたももの、それが一体どのような催し物なのかが全然イメージできなかったのだ。「ビルの上からバンジージャンプでもするのだろうか?」
実際にそれを見るまで、僕はそんな想像しかしていなかった。しかしその答えは、大勢の愚者達による行列が大通りに現れた瞬間、あっさりと導き出された。

アレマン風カーニバル2

愚者の跳躍

トボケ面した仮面をかぶり、奇妙な高笑いを続けながら低いジャンプを繰り返す愚者達・・・。全身に巻き付けられた無数の鈴が、小刻みなステップ(跳躍)によってシャンシャンと音を鳴らした・・・。なるほど・・・、納得である。こうして、愚者の跳躍と呼ばれる滑稽な大行列は、見物している子供達にはお菓子を、そして見物している大人達にはお酒やコンドームを配りながらゆっくりと行進していった。奇妙な高笑いと、穏やかな鈴の音を残して・・・。

アレマン風カーニバル3

↑全身に鈴を巻き付けた愚者

他のカーニバルとは異なり、ここではほとんど紙吹雪が使用されていなかった。その代わりなのか、鈴ではなく全身に羽根を付けた愚者達は、目に止まった見物客をひたすらくすぐっていた。何やら馬の尻尾が付いた棒のようなモノで・・・。

アレマン風カーニバル4

↑・・・や、やめて。

この街のカーニバルを一言で表現するなら、僕は「笑いの絶えない民俗祭り」と呼ぶだろう。他のどことも違った、実に個性的な伝統行事だったと思う。黒い森と共に厳しい冬を生き抜いてきた彼等の力強さ、そのアレマン魂を僕も少しだけ分けてもらえたような気がした。

2006年2月27日の思い出
proudjapanese

小さな巨人・・・。日本語を使用した文法上の表現として、この形容詞と名詞の組み合わせは適切ではない。しかし、凄まじい能力を内に秘めた小柄な体格の偉人を称える時、これ以上適切な言葉はなくなる。僕は、その小さな巨人に会った事がある・・・。

漫画「巨人の星」では、オズマが星飛雄馬の事を「リトル・ジャイアント小さな巨人)」と称賛した。また「ドカベン」でも、エース里中投手が自らを「小さな巨人」と口にしている。彼らの共通点は、小柄な体格をした男性であるという事、スポーツ選手であるという事、そしてどんな障害をも退ける強靭な肉体と精神を併せ持っていたという事だ。彼らは日本の子供達に勇気と希望を与え、同時に野球界の繁栄にも一役買った。だが、飛雄馬や里中がフィクションという最大の武器を以ってしても太刀打ちできない相手が存在する。実在の英雄は、厳しい顔つきで氷上に姿を現した・・・。

清水宏保、北海道が生んだ日本を代表するスピードスケート短距離界の第一人者である。
幼稚園の時にスケートを始めた彼も、今月27日には32回目の誕生日を迎える。
2006年2月13日月曜日、その彼はトリノ・オリンピックという最高の舞台で、31歳最後の
スタートラインに立った。僕はその姿を、観客席から静かに見守っていた・・・。

清水選手1

↑レース前の清水選手の様子

1998年長野オリンピック、僕の青春時代に、彼は最も輝く色のメダルを首に下げた。その年から、世界距離別選手権500メートルで4連覇を達成。2002年のソルトレーク・オリンピックでは、同競技で銀メダルを獲得した。当時、清水選手に密着したテレビのドキュメンタリー番組を見た時、無酸素運動という壮絶なトレーニングを鬼の形相でこなす彼の姿が放送された。特別スケートに興味がなかった僕の目にもその光景は力強く映り、少なからず前を向いて必死に努力する事の重要さとその難しさを学んだ。そして2006年、年齢を重ねるに連れて衰えていく肉体、彼はその限界をも乗り越えオリンピックの出場権を手に入れたのだ。全盛期のような滑りはもうできるはずがない。「でも、でも清水ならっ!!」そう願う多くのスケートファンがオーヴァル・リンゴットに詰め掛けていた。僕もその内の一人であった事は言うまでもない・・・。

レースはあっと言う間に終わった。金メダル、銀メダル、銅メダルを獲得した三選手がそれぞれ表彰台に立った時、そこにかつての世界記録保持者・清水宏保の姿はなかった。日本人であれば、誰もがその光景を見て残念に思う事だろう。日本勢は及川選手の四位が最高で、メダルを獲得するには至らなかった。18位という残念な結果、メダルどころかトップ10に入る事すらできなかった無念、清水選手は静かにクールダウンをおこなった後、寂しそうにリンクから姿を消した・・・。

その後、観客がほとんどいなくなった会場内をカメラ片手にウロついていた僕は、偶然関係者用通路に入ってしまった。清水選手と直接言葉を交わす事ができたのは、そこで取材に応じていた彼が僕に気付き「応援していただいたのに、スイマセンでした」と声をかけてきてくれたからだ。僕はミーハーとしてのキャリアは長い。有名人に会う事が大好きで、今までも多くの著名人の方々と言葉を交わした経験がある。まして僕は関西人、相手から笑いの一つでも引き出せるだけの自信があった。だから彼と対面した時、言葉が詰まってしまった自分に驚いた。何と言ったら良いのかが全く浮かんでこなかったからだ・・・。「いえ、素晴らしい滑りでした!」と言うのは逆に失礼だと思ったし、寂しそうな表情を浮かべる競技後のアスリートに対し「残念でしたね」と言う訳にもいかなかった。「次、頑張ってください!」とエールを送ろうにも、彼の年齢を考えたらその言葉も口から出てはこなかった。だからといって、「お疲れ様でした」の一言はあまりに寂しすぎた。結局僕は、「いつも応援してますから」とだけ伝えたのだった。

清水選手2

↑快く記念撮影に応じてくれた清水選手だったが、やはり表情は最後まで晴れなかった・・・

小さな巨人・・・。日本語を使用した文法上の表現として、この形容詞と名詞の組み合わせは適切ではない。しかし、凄まじい能力を内に秘めた小柄な体格の偉人を称える時、これ以上適切な言葉はなくなる。「じゃあ、レース後の調整(トレーニング)があるんで」、そう言ってその場を後にした清水選手・・・。身長162センチという小柄な体格をしたスピードスケートのアスリート、彼はどんな障害をも退ける強靭な肉体と精神だけではなく、何よりも努力を惜しまない姿勢を持っていた。
僕はイタリアのトリノという街で、小さな巨人に出会った。

オリンピック

↑オリンピックには、実に様々なドラマがあった・・・

2006年2月13日の思い出
proudjapanese

中東諸国において、鉄道という移動手段はあまり一般的ではない。
異常に少ない本数や、市街からかなり離れた場所にある駅、バスの倍以上かかる所要時間などが主な原因であると考えられる。
また、国の経済事情(運営費不足)からか設備の老朽化は明白で、車両に関してもとても快適と呼べるものではない。
よって、中東諸国における鉄道というものは、人々の移動手段としてではなく、あくまで貨物の運送用に存在するものだと考えた方が賢明だ。
・・・そんな事、僕は初めから知っていた。
でも・・・、いや、だからこそ、僕はアンマン(ヨルダン)~ダマスカス(シリア)間を鉄道で移動する事に決めたのだ。

ダマスカス1

↑アンマン駅(ヒジャース鉄道


2006年1月2日月曜日午前7時、僕は市街から車で20分ほど離れたアンマン駅に来ていた。
首都の中央駅としてはあまりにみすぼらしい佇まい、ここに来るまでにタクシーの運転手が散々迷ったのも無理はない。
かつてシリアからサウジアラビアまでを結んでいたヒジャース鉄道は、数年前からアンマン~ダマスカス間においてのみ旅客車も走らせるようになった。
月曜と木曜の午前8時発、この週2便の旅客車は、現時点(2006年2月8日現在)では外国人旅行者にも開放されている。
まぁ、外国人旅行者どころか、現地の利用客すら一人も見当たらなかったが・・・。
とりあえず切符を購入しようと駅構内に入った僕に、駅員らしき男は無言で人差し指を突き上げた。
二階・・・??
恐る恐る階段を上がって行くと、そこには数人のヨルダン警官が待ち構えていた。
しかし彼等によるパスポートチェックは意外に甘く、今までの経路やシリア入国ビザの確認、パレスチナ入国歴に関する簡単な質問など15分程度で終わるものだった。
その場で警官に一旦パスポートを預け、それと引き換えに受け取った書類を持って一階の窓口へ向う。
僕はそこで、ようやくダマスカスへの片道切符を入手できたという訳だ(ちなみに、預けたパスポートはヨルダンを出国した時点で返してもらえた)。

ダマスカス2

↑ヨルダン~シリア間を走る国際列車(ヒジャース鉄道


僕をシリアへと運ぶ列車は、予想通りそのほとんどが貨物用車両によって編成されていた。
人を乗せられるのは僅か二車両で、その内の一車両が旅客用、そしてもう一つはなんと警察用車両だった。
「何で警察用車両なんてあるんやろう??」
そんな疑問を抱えつつ、とりあえず僕は列車に乗り込んだ。
その直後、僕は新たに不思議な光景を目にした。
旅客車の窓ガラスが何枚か割れていたのだ。
それを駅員の内の一人が、淡々と新しいガラスにハメ変えていた。
「何で割れとったんやろ??」
木製の座席(ベンチ)に座った僕がそうこう悩んでいる間に、とうとう時計の針は午前8時をまわった。
こうしてアンマン発ダマスカス行きの列車(国境駅乗換)は、警察用車両に4人ものヨルダン警官を、旅客用車両には3人の駅員と一人の現地人乗客、そして一人の日本人観光客(僕)を乗せ、静かに走り出したのだった・・・。

ダマスカス3

↑木製の車内


「マグニチュードはいくつですか??」、思わずそう尋ねたくなるような強い揺れ・・・。
「大工事は近所迷惑です!!」、ついそう叫びたくなるほどの大騒音・・・。
なのに、「これってカブ??」と思うほど遅ぉーい走行スピード・・・。
出発して何分も経たない内に、自分が最悪の列車に乗った事を実感した。
更に、出発前から僕が抱いていた疑問も「恐怖体験」という形で一気に解決された。
スラム街に住む子供達による投石の来襲である。
せっかくハメ変えた新しい窓ガラスが無残に散っていく・・・。
その度に列車は一旦止まり、警官が数人がかりで悪ガキを追い払うのだ。
娯楽を知らないこの辺の子供達にとっては、週に2回通る列車に石を投げる事が唯一の楽しみらしい。
警察用車両の存在や窓ガラスが割れていた理由、それらの謎は全てこの一件により明白になった。
慣れた手つきでダンボールを貼り、割れた窓ガラスに応急処置を施す駅員A、愚痴を零しながらガラスの破片を掃き集める駅員B・・・。
少ない乗客に対して3名もの駅員が乗車していた事に対しても、僕はこの時初めて納得できた。
シリアに入国するまで続いたこのデンジャラスな鉄道の旅、確かに危険や恐怖も感じたには感じたが、僕にとっては忘れる事のできない楽しい思い出になった。
それはきっと、僕が生粋のMだからという理由だけではなさそうだ・・・。

ダマスカス4

↑窓ガラスを割られた旅客車


ダマスカス5

↑ダマスカス行き列車(シリア国鉄)


入国審査の後、国境駅でヨルダン警察と窓ガラスの割れた車両に別れを告げ、僕はそこからダマスカス行きの列車に乗り換えた。
やはり一両編成のボロい電車だったが、その車窓から眺めた砂漠でテントを張って暮らす人々の生活、それは欧州や僕の母国では決して見る事のできない光景だったと思う。
ヨルダンからシリアに入国した直後の変化も興味深かった。
車窓から見える子供達の表情が一変したのだ。
シリア側では、列車に石を投げたりする子供は一人もいなかった。
線路沿いに並び、みんな笑顔で手を振っていた。
そのギャップは実に印象的だった。
それから面白かった事がもう一つ、それは踏切通過時に車を優先させる事だ。
遮断機や信号なんて物は当然存在しない。
踏切で車が通っている時は、電車が停止して車が行き過ぎるのを待つ。
また、線路上にちょっとでも大きな石があると、その度に停止して駅員がそれを撤去する。
まぁ、当然時間通りに到着するはずはない。
僕が乗った時は16時間以上遅れた。
8時間で着く予定だったが、24時間以上かかった(夜は駅員達と仮眠室で一夜を過ごした)・・・。
ダマスカス到着まで続いたこのノンビリ(過ぎ)鉄道の旅は、確かに苛立ちや焦りも感じたには感じたが、僕にとっては忘れる事のできない楽しい思い出になった。
それもきっと、僕が生粋のMだからという理由だけではなさそうだ・・・。

ダマスカス6

↑ゆっくり、ゆっくり進みます。


中東諸国において、鉄道という移動手段はあまり一般的ではない。
異常に少ない本数や、市街からかなり離れた場所にある駅、バスの倍以上かかる所要時間などが主な原因であると考えられる。
また、国の経済事情(運営費不足)からか設備の老朽化は明白で、車両に関してもとても快適と呼べるものではない。
更に付け加えると、無邪気な子供達の攻撃によって少なからず自分の身に危険が生じる。
故障などのアクシデントにより信じられないほど遅れる事もよくある。
よって、中東諸国における鉄道というものは、人々の移動手段としてではなく、あくまで貨物の運送用に存在するものだと考えた方が賢明だ。
それでも僕にとっては、「また乗りたい!」と思えるほど良い思い出になった。
もちろんそれも、僕が生粋のMだからという理由だけではない。
ヒジャース鉄道、是非一度お試しいただきたい。

ダマスカス7

↑シリアの車窓から


2006年1月2日・3日の思い出
proudjapanese

個人旅行を最大限に楽しむには、「資金」、「情報」、そして「運」が絶対不可欠だ。
この中でも特に重要なものが、情報である事は言うまでもない。
確かに大金さえあれば、世界中どんな国にでも行けるだろうし、夢のような豪華な一時を過ごす事も可能だろう。
しかしそれでは、旅を終えた後に飲む甘いコーヒーの味を心から堪能する事はできない。
苦いコーヒーを甘くするのは達成感であり、それは旅の中で直面する数々の障害を自らの力で乗り越える事によって生まれるからだ。
金に物を言わせるだけの個人旅行、そこには何の意味もない。
それなら初めから、旅行会社を通してツアーに参加すればいいだけの話だ。
次に運だが、これはこれで重要な要素であると思う。
道中での人々との出会い、自然現象、社会現象の移り変わりなどは運によって左右される事が多い。
だが、こればかりはどうにもならないもので、根拠のない強運だけを頼りに旅を進める訳にもいかない。
よって、多くの情報を収集し、それを最大限に生かす事こそが最も大切だと言える。
情報次第では、いくらでも支出を抑える事が出来るし、ある程度運を引き寄せる事も可能だからだ。
個人旅行で最も大切なモノは、情報である。
ヨルダンの首都アンマンにある安宿「クリフ・ホテル」、そこに泊まるまで、そこで一人の従業員と出会うまで、僕はそう思っていた・・・。

アンマン1

↑クリフ・ホテルの入口


「ドウイタシマシテ!」・・・、死海への行き方を教えてもらった僕がアラビア語でありがとうと言うと、彼は笑顔でそう答えた。
クリフ・ホテルで働くサーメルさん(31歳)、丸いメガネと落ち着いた笑顔が印象的な優しいお兄さんだ。
無駄に明るい他のアラブ人とは違い、もの静かでありながら細かい気配りを忘れない彼は、宿泊客が求める事なら何でも快く協力してくれる。
観光名所への交通手段などは、無駄な出費を抑えられるようにと、最も安く効率的な方法を教えてくれ、ツアーへの勧誘などは一切しない。
宿泊客が心から楽しんでくれるように、色々と相談にも応じてくれる。
この宿は、特に施設が充実している訳ではない。
基本的に二人一部屋のドミトリーだし、シャワー室だって意外に狭いし汚い。
料金に関しても、他の安宿より飛び抜けて安い訳ではない。
それでも多くのバック・パッカーがこの「クリフ・ホテル」を訪れるのは、ひとえにサーメルさんの人柄によるものだと言っても過言ではない。

「ドウイタシマシテ!」・・・、他の宿泊客とロビーで談笑していた僕が、ネス・カフェを差し出してくれたサーメルさんに感謝の意を伝えると、彼はいつものように笑ってそう答えた。
安宿のロビーというのは面白いもので、多種多彩なルートを経て辿り着いた様々な国の旅人達が一同に集い、国籍を問わず「旅好き」という共通点だけで何時間も笑いが絶えない。
この夜も、僕等は様々な旅の零れ話に花を咲かせていた。
そして話題が「旅において最も大切なモノ」に移り変わった頃には、仕事が一段落したサーメルさんもその輪に加わっていた。
「マリファナ」や「コンドーム」など、それぞれが好き放題言い合う中、ある韓国人女性がサーメルさんに意見を求めると、「責任」という言葉が返ってきた。
自分の国に胸を張って帰る。それが旅人の最大の責任であり、旅において最も大切なモノだと思います。
彼が実際に語った言葉はこれだけである。
・・・それは僕を含めたその場の日本人にとって、非常に痛く重い一言だった。

2004年10月31日、イラクのバグダッド市内で一人の日本の若者が遺体で発見された。
僕と同年代で、「自分探し」を渡航目的にイラク入国を決意した青年、彼のイラク行きを手配したのは他でもないサーメルさん自身だった。
「自分の無責任な行動が、未来ある青年を死に追いやってしまった。」
現地報道陣の取材に対し、彼はそう語ったという。
イラクの日本人人質殺害事件は、日本国内だけに止まらず、ここアンマンで働く優しい安宿従業員の心にも大きな傷を残した。
当時の情報ノートには、サーメルさんが「戦後は戦時中以上に危険だ!」と最後まで止めた事や、それを聞き入れずイラク行きを強行した青年に関する内容がハッキリと記されていた。
事件後、大勢の(日本の)報道関係者がサーメルさんのもとを訪れ、非道な取材を強要したという事も・・・。
サーメルさんの親切を利用してイラク行きを申し出る(日本人)旅人が、未だに後を断たないという事も・・・。
それでも彼は、今でも訪れる(日本人)旅人を温かく迎え入れてくれている。

2003年5月1日、一人の無責任な日本人ジャーナリストによって、ここヨルダンでの日本人全体の信用が崩れ去った。
アンマンのクイーン・アリア国際空港で起こった爆発事件、その原因はなんと日本人ジャーナリストがイラク戦争取材中に記念品として持ち帰った(クラスター爆弾の)子爆弾だったのだ。
五味宏基という最低邦人の無責任は、空港職員一名の尊い命を奪い、罪のない五名の人々にケガを負わせた。
二年以上が経過した今現在も、多くのヨルダン人の脳内にはこの時の無責任な日本人像が根強く残っている。

自分の意志で海を渡り異国の地を訪れる以上、個人としての責任を背負うだけでは不充分だ。
いくら個人旅行とはいえ、旅先での僕等の行動は、全て「日本人」としての行動と受け取られる。
旅の恥は掻き捨てではない。
現地の人々の心には、日本人が掻いた恥としていつまでも残る。
上記の空港爆発事件が、その代表的な例と言えるだろう。
クリフ・ホテルのロビーでサーメルさんと話した夜は、僕にとって本当に良い勉強になったと同時に、今までの自分の行動を見直す良い機会になった。
僕はこれまでにどれだけ日本人の品格を落としてきたのだろうか・・・。
「今のままでは、とても胸を張って母国に帰る事なんて出来ない。」
僕はそう反省した・・・。
今後、僕は個人としてだけでなく、一人の日本人として責任ある行動をとらなくてはならない・・・、難しい事だが・・・。

個人旅行を最大限に楽しむには、「資金」、「情報」、そして「運」が絶対不可欠だ。
しかしそれ以上に重要なものが、「責任」である事を忘れてはならない。
自分の人生は、自分だけの人生ではない。
旅先での恥ずべき行動は、今まで自分に関わった全ての人々の人生と、母国全体に大きな影響を及ぼす。
よって、胸を張って母国に帰れるよう、しっかりとした責任を持ち、現地の方々への敬意を忘れず、自らを危険にさらす事のない行動を心がける姿勢、それこそが旅において最も大切なモノであると言える。

「ドウイタシマシテ!」・・・、クリフ・ホテルを去る時、最後に感謝の気持ちを告げた僕に対し、サーメルさんは普段通りの笑顔でそう答えた。
いつも旅の全日程を終えた後、僕が決まって達成感に浸りながら口にする甘いコーヒー・・・。
その味は、サーメルさんが宿泊中毎晩淹れてくれたネス・カフェの足元にも及ばない。

アンマン2

↑アンマンの街並み


2005年12月30日~2006年1月2日・8日の思い出
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シナイ山1

↑聖地シナイ山


旧約聖書 出エジプト記 第20章 ~十戒の授与~
エジプトを脱出してから三ヵ月後、モーセの一行はシナイ山の麓に着いた。
モーセはシナイ山へ登頂を始め、そこで神より十戒を授かる。
十戒には以下が記されていた。

01. あなたは私の他に何者をも神としてはならない。
02. あなたは自分の為に刻んだ像を造ってはならない。
03. あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
04. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
05. あなたの父と母を敬え。
06. あなたは殺してはならない。
07. あなたは姦淫してはならない。
08. あなたは盗んではならない。
09. あなたは隣人について偽証してはならない。
10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
(カトリックの解釈では、「02」が省かれ、最後に「あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。」が付け加えられている。 )

シナイ山2

↑聖なる御来光


早朝二時頃から巡礼者に混じり、真っ暗な闇の中、懐中電灯を頼りに三千数百段の階段を一歩一歩登った。
死を覚悟するほどの極寒、暗闇の恐怖、そして疲労・・・。
宗教心の欠片も持ち合わせていない僕が、こんなに苦労をしてまでシナイ山の頂点を目指した意味・・・。
ゆっくりと辺りがオレンジ色に染まっていった時、その答がハッキリと理解できた。
かつてこの地で神から十戒を授かったモーセは、一体どんな想いでこの朝日を浴びたのだろう。
僕の場合、偽証と姦淫だらけの人生だが、シナイ山の頂から聖なる御来光を眺めていると、少なからず心が洗われるような気がした。

シナイ山3

↑朝日を眺める現代のモーセ


2005年12月26日の思い出
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エジプトを訪れて一週間以上が経過し、僕は心底疲れていた
しかしこのアブ・シンベルという小さな村は、そんな僕を温かく迎え入れ、そして癒やしてくれた。
今回は、エジプトに行って初めて経験した真実の温もりについて記していきたいと思う。

アブ・シンベルと聞いて、誰もが頭に思い浮かべるのはアブ・シンベル大神殿だろう。
巨大な一枚岩から成るその雄々しい姿は、訪れた人々に古代文明の高さを認識させ、同時に建設を命じた古の英雄ラメセス2世の強大な権力を思い知らせる。
またこの神殿は、かつてアスワンハイダムの完成による水没の危機に立たされていた時、ユネスコが大々的な救済活動(移築工事)を行った事でも一躍有名になった。
現在ナセル湖を見下ろすこの神殿は、古代と現代の技術と努力の融合体として、僕の胸に大きな衝撃を与えた。
特に朝日に照らされた時の神殿は、普段とは一味違った優しい表情を見せ、ついつい見惚れてしまったのを覚えている。
遺跡の宝庫と呼ばれるエジプトの中でも、代表的な見所として認知されているアブ・シンベル大神殿・・・、そこには年代を超えた全人類の魂が込められていた。

アブシンベル1

↑朝日に染まるアブ・シンベル大神殿


エジプト旅行最大の目的であったアブ・シンベル大神殿の訪問、期待通り今まで見た数々の遺跡の中でも最上級の神殿だったと感じた。
しかしそれ以上に、僕にとってはこの村で口にした夕食の味が忘れられない。
神殿からホテルに帰る途中に話しかけてきた二人の男、サフィーとハッサン。
神殿で働くこの二人のヌビア人のおかげで、僕はアブ・シンベルという小さな村で最高の思い出を作る事が出来た。
夕食に招待され、彼等の家族と一緒に食卓を囲み、お互いの母国について話しながらヌビア料理を味わった。
食後はシャイを片手に皆で踊り、疲れたらシーシャ(水パイプ)を吸ってちょっと一息、そしてまた踊り出す。
深夜まで騒いだ後、サフィーと彼のご両親が僕をホテルまで送ってくれた。
車から降りる時、サフィーは僕に大きな箱を手渡して言った。
「美味しいから食べてね!」
彼のお母さんによる、お手製アラブ菓子の詰め合わせだった。
「いつもより甘くしておいたからね!他では買えないよ!だから、食べたくなったらまたおいで!」
ヌビア人独特の愛敬溢れる笑顔を浮かべたサフィーのお母さんは、車の窓越しにそう叫んでいた。
運転席にいたお父さんは、一言「良い旅を!」とだけ言って手を振った。
結局最後まで金の話を一切出さないまま、彼等は去って行った・・・。
視界から消えて行くオンボロ車に手を振りながら、どこかで彼等を疑っていた自分自身を恥ずかしく思った。
金目当て以外で受けた歓迎・・・。
それがどんなに嬉しい事だったかは、ヘビーなアラブ諸国を一人で旅した者でなければ分からないかもしれない・・・。
この日に過ごした一夜こそが、僕のエジプトでの最高の思い出であったと言える。

アブシンベル2

↑エジプトで初めて出会ったイイ奴、サフィー


世界遺産アブ・シンベル大神殿は、言うまでもなくエジプト最大の観光名所だ。
毎日、世界各国から大勢の観光客が押し寄せる。
しかし訪れる観光客は、日帰りで神殿だけを見にくる人がほとんどだ。
この村に神殿以外の名所がない事や、スーダンとの国境近くというこの村の位置関係からか、訪れる人はツアー客はもちろん、個人旅行者もアスワンからの日帰りツアーに参加するのが一般的とされている。
僕のように、現地人が利用するローカル・バスに乗ってこの村を訪れる変わり者なんてほとんどいない。
よって、アブ・シンベルの村自体は驚くほど観光地化されていない居心地の良い所だ。
当然、観光客ズレした悪徳商人や客引きなども(僕が見た限りでは)いない。
確かにホテルやレストランなどの施設は異常に少ないが、光りと音のショー(ライトアップされた神殿)や朝日に染まる神殿などは日帰りでは堪能できない。
だから僕は、是非この村で宿泊する事をお勧めする。
何よりも、明るいヌビア人の広い心に触れる事ができると思うから。

2005年12月20日・21日の思い出
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白砂漠や黒砂漠、西方砂漠にクリスタル・マウンテン・・・。
エジプトの砂漠には、旅行者を惹き付ける魅力的な名所が数多く存在する。
21世紀の現代社会から離れ、広大な砂漠をジープで疾走し、キャンプファイヤーを皆で囲みながら夜空一面に散らばる無数の星を眺める。
やがて東から昇ってくる朝日に見惚れ、黄金色の空間に我を忘れる・・・。
僕にとって、一泊二日の砂漠ツアーは、エジプトで最初に体験したインパクトの強い思い出となった。

砂漠1

↑白砂漠


ツアーの基点となる村バフレイヤ・オアシス、カイロからのバスで僕が到着した頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
騒々しい大都市カイロとは打って変わって、非常に穏やかな雰囲気だった。
「観光客はバスから降りた瞬間、大勢の砂漠ガイドに囲まれる」、そう聞いていたのだが・・・、砂漠ツアーの客引きなど全く見当たらなかった。
まぁ、夜遅くに着くバスだったので、当然と言えば当然か。
とりあえずホテルを目指し歩き出そうとしたその時、一人の男が僕に声をかけてきた。
自称・砂漠ガイドのその男から手渡された一枚の名刺には、太字で「Desert Tiger」と書かれていた。
彼からの説明は一通り聞いたが、この「砂漠の虎」にツアーを依頼するかどうかは、料金に関する事や見て周るポイント、更に食事の有無などの条件をじっくり話し合った上で決めねばならないと判断し、明日の午前中にもう一度会う約束を交わした後、僕は一人でホテルに向かった。

砂漠観光というのは実にやっかいだ。
欧州の古城や教会を訪ねるのとは訳が違う。
公共の交通機関を利用して簡単に出向く事など出来ないのだ。
本来、僕の旅のスタイルは個人自由旅行タイプで、なるべくツアーへの参加はしない。
生粋のMという事もあり、出来るだけ辛い思いをしながら低予算で周遊するのを良しとする。
しかし、この砂漠という大自然を安全かつ効率的に満喫するには、残念ながらその地を知り尽くしたガイドによるツアーに参加せざるを得なかった。
基本的にツアーの料金は車(ジープ)一台で値段が設定されており、一人当たりの出費を抑えるには数人でシェアする事が絶対条件となる。
また、何人かで参加する場合も、事前に食事の内容や持参する防寒具などのオプションについては、事細かに話し合っておく必要がある。
トラブルを避ける為には、観光するポイントだけでなく料金の支払い方法等もしっかり確認しておくのがセオリーと言える。
とにもかくにも一人で村に到着した僕にとっては、まず一緒にツアーに参加する旅人数人を見つけ出す事が最優先課題だった訳だが、それは翌朝カイロから来た韓国人家族(3人)と出会えた事で簡単にクリア出来た。
午前中、全ての条件をキッチリと話し合った上で、結局「砂漠の虎・アザム」を雇い砂漠に向かう事が決定した。
ちなみに、韓国人家族が乗ったカイロからのバスがバフレイヤ・オアシスに到着した時は凄かった。
観光客争奪戦が群がる自称ガイド達によって行われ、その白熱ぶりといったらワールドカップ以上だった。
客の横取りを企てた一人の砂漠ガイドに対してアザムが飛び蹴りをカマした瞬間、何故彼が「デザート・タイガー」と呼ばれているかが少しだけ理解出来た。

出発してから約二時間、舗装された道路と黒砂漠ロードを交互に走り抜け、午後四時頃にはキャンプ地である白砂漠に到着した。
アザムとガイド補助のおじさんが二人でテントの準備をしている間、僕は韓国人家族と「ヨン様」「ピ様」などのしょーもない話題で盛り上がっていた。
やがて漆黒の闇が砂漠全体を覆った頃、アザムが自慢げに東の方角を指差した。
「ムーン!」、・・・月である。
月が東から昇ってくる・・・、当たり前の話だが、日常生活の中で我々がこの光景を目にする事はあまりない。
我々が知っている月とは、気付けば上空に薄っすら浮かんでいるものだからだ。
しかしここ砂漠では、輝きを放ちながら月も東から昇ってくる・・・。
エジプト最初の感動は、この瞬間に感じた。

月が完全に昇りきった頃から、若干辺りは明るくなった。
月光とキャンプファイヤーの灯りの中、僕等はベドウィン流の踊りやゲームを楽しみながら時間を過ごした。
アザムが作った料理は本当に美味しかったし、食事中にヒョッコリ現れたキツネ君も愛らしかった。
食事の後、僕は一人でゆっくりと白砂漠を散歩してみる事に・・・。
そこには、無音の世界が広がっていた。
自分以外は何も存在しないような不思議な錯覚に捉われ、僅かな月と星の輝きだけが延々と続く砂の大地を照らしていた。
ただただ静かな時だけが流れ、風の音すら存在しない無音の世界・・・。
僕は大自然に囲まれながら、エジプト二度目の感動を味わった。

深夜二時過ぎ、アザムが用意した寝袋に包まり三枚の毛布をかぶって眠りに・・・、つけない!!
眠れるはずがない!!
寒い、死ぬほど寒い!!
結局僕は、ほとんど寝る事が出来なかった。
「自然とは、美しいだけのものではなく、恐ろしいものでもある!」、エジプトに来て最初の恐怖を僕はこの夜体験した。

砂漠2

↑日の出


午前六時過ぎ、僕等は待ちに待った朝日を目の当たりにした。
薄いピンク色の太陽光が砂漠に反射し、黄金色の空間を作り出す。
「寒さに耐えてまで、この瞬間を待ったかいがあった」、僕はそう思った。
この時目に映った光景が、僕をエジプト四度目の感動へと誘った事は言うまでもない。
その感動を胸に抱いたまま、僕等は西方砂漠やクリスタル・マウンテン、黒砂漠を見て周った後、バフレイヤ・オアシスに戻ったのだった。

砂漠3

↑黒砂漠と俺


「あれ??では三度目の感動はいつ味わったの??
・・・その答はここには記したくない。
とりあえず今回は、このままキレイに終わっておきたいと思う。

2005年12月17日・18日の思い出
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野宿1

↑11月のリヒテンシュタインで野宿!



11月3日夜にマンハイムを出発した僕が、リヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツに着いたのは4日の23時ちょっと前だった。
当然の事ながら比較的安い宿は満室(或いは閉まっていて)、空いていたのは一泊200ユーロもする高級ホテルだけ・・・。
野宿を決断せざるを得ない状況の中、昨夜自分が犯したミスを悔いながらも、なんとか寒さをしのげる寝床を探した。
そんな場所などないと分かっていながらも・・・。

野宿2

↑凍死直前の気分を、電話ボックスの中で味わった



「何をしてるんです?!」
電話ボックスの中で胡坐をかく東洋人を懐中電灯で照らし、深夜の見回りをしていたガードマンはそう尋ねてきた。
最初は外で耐えていたのだが、座っているだけでケツが凍るほど冷えたため、ここで寒さを凌いでいる、と僕は彼に伝えた。
驚きを隠せないでいた彼に、僕は宿を取れなかった理由を簡単に説明し、自分がただの愚か者であって特に怪しい人物ではない事を主張した。
なんとか、その場は通報されずに済んだ。

野宿3

↑観光地・リヒテンシュタイン(Riechtenstein)の看板



衰弱して行く己の体が数分毎に実感出来た。
持参のカイロでどんなに体温の低下を防いでも、明らかに全身の感覚は薄れて行く・・・。
やがて強烈な睡魔に襲われ、カイロを持つ両手の握力すら自らの意思ではコントロール出来なくなる・・・。
自分が凍死への一本道を歩んでいる事に気付く・・・。
「眠ってはいけない!」と自分に言い聞かせながら、何度も場所を変えては少しずつ休憩した。
リヒテンシュタインの看板を横目で見ながら、改めて自分の未熟さを再確認した。
結局、風だけは防げる電話ボックスに再び戻った僕は、ゆっくりと両まぶたを閉じた・・・。
「もう、駄目かもしれない・・・」、そう思いながら・・・。

「大丈夫かい??」
またしても眩しい光が僕を照らした。
「こんな所にいたら死んでしまう!!一緒に来なさい!!」
さっきのガードマンは有無を言わさず僕を電話ボックスから連れ出し、そう言った。
朦朧とする意識の中で、僕はただひたすら彼について行った。
そう、・・・生き残るために。

「ここなら外よりマシだろう?暖房つけておいたから。始発のバスが来るまで、ここで休むと良いよ。」
暖房によってしっかりと暖まった室内、横になって休めるベンチ・・・、そこは正に天国だった。
ガードマンは閉まっていたバスの待合室の鍵をわざわざ開けてくれたのだ・・・。
僕のために、暖房のスイッチまでつけて・・・。
嬉しかった・・・。
更に彼は一杯のインスタント・スープを僕に手渡し、「体、温まるから」と言って勤務に戻って行った。
・・・人生で最も美味しいスープだった思う。
大した観光も出来ずに辛い思いばかりした小旅行ではあったが、僕はこのリヒテンシュタインという国が大好きになった。
「また来よう!」、そう心に誓った。

野宿4

↑美味しかったです、ありがとうございました。



2004年11月4日・5日の思い出
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