THE TREE OF LIFE ~生命の木~

世界日記 (本編)


   
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今日、ドルトムントでサッカー日本代表の試合を観てきた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナとの親善試合、夏のワールドカップに向けて勢いをつけたいジーコ・ジャパンは、ほぼフルメンバーでゲームに臨んだ。日本の植民地(嘘)デュッセルドルフから近いという事も手伝ってか、我らが日本代表を応援しようと、スタジアムには大勢の邦人観客が詰め掛けていた。僕もその内の一人であった事は言うまでもない。

結果から言ってしまえば、2-2の引き分けで終了のホイッスルが鳴った。高原のゴールで先制した日本だったが、後半立て続けに点を失い、逆転されたままロスタイムを迎えた。試合終了直前になんとか中田(英)がゴールネットを揺らし同点に持ち込んだが、内容を考えるとワールドカップにやや不安が残る試合展開だったと言えるだろう。しかし、これはあくまで親善試合だ。ただのテスト・マッチにすぎない。代表の選手達はみな選び抜かれたプロ中のプロであり、今回見えた課題などは今後キッチリ調整し、万全の態勢で本番に臨むので心配いらない!!僕はそう思っていた・・・。

試合後、ユニフォームを交換し互いの健闘を称え合った日本とボスニア・ヘルツェゴヴィナの選手達・・・。降雪という最悪のコンディションの中でも必死に戦い抜いた90分には、両観客席から溢れんばかりの拍手が贈られた。そこまでは、両チームともスポーツマンらしい爽やかな姿だった。しかし残念ながら、その後選手達が向った先が、日本とボスニア・ヘルツェゴヴィナでは全く違ったのだ。我らが日本代表の選手達は、ファンに背中を向けたまま平然とピッチから姿を消した。応援してくれた満員のサポーターに一礼する事もなく、手も振らずに・・・。その悲しい光景を目の当たりにした瞬間、早くもワールドカップ本大会の結果が頭に浮かんでしまった。最も残念な結果が・・・。

試合中のメインスタンドには、寒いなか声を枯らしながら一生懸命エールを送る子供達の姿があった。震えながらも笑顔で手作りの応援フラッグを掲げる子供達の姿があった。そう、日本サッカー協会から招待を受けたデュッセルドルフ日本人学校(補習校)の生徒達だ。試合開始から、いや、その前のウォーミングアップ中から、彼等の応援は最後まで止む事はなかった。確かに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ側から聞こえたような、キレイに揃った応援歌ではなかったかもしれない。発炎筒を用いた派手な盛り上げ方ではなかったかもしれない。だがそれでも、チビッコ応援団の熱い気持ちだけは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ側に全く引けをとっていなかったと僕は思う。だから僕は、選手達が試合後メインスタンドを見もせずに立ち去った瞬間、なんとも言えない失望感のようなものを感じてしまった。子供達に夢を与えるのもプロの仕事である以上、あの日の日本代表は最低のアマチュア集団だったと言わざるお得ない。

試合開始直前に流れたスタメン発表のアナウンス、それは当り前のように英語と日本語で放送された。ゴール裏には、当り前のように「アイフル」や「KIRIN」など日本企業の広告看板が置かれていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの応援席がゴール裏の小さなサポーター席であったのに対し、日本のサッカーファンは当り前のようにメインスタンドを埋め尽くしていた。そこは、まさに僕の母国そのものだった。経済大国・日本だった。ドイツという第三国で行われる試合にも関わらず、客観的に見て開始前からフェアな状況とは言い難かった。そんなホーム同然の優位な状況下にありながら、日本代表が勝てなかった理由は、なにも戦術的・技術的・体力的な問題だけではなかったと思う。どんな試合結果であろうとも、応援してくれたファンの方にはキチンと一礼をする・・・。観客席の子供達には笑顔で手を振る・・・。そういったテレビ中継では放送されない所での礼儀、それも大事な要素だと思うのだが・・・。

入場口で(無料で)配られた日本代表の応援フラッグ、そこには新しいスローガン「SAMURAI BLUE 2006」の文字が描かれていた。・・・笑ってしまう。礼儀を知らない侍が、異国の地で一体どんな結果を出せるというのだろう。ドイツで開催される夏のワールドカップ、あまり日本の恥をさらしてほしくないものだが・・・。

サッカー観戦

↑試合後しっかりファンに挨拶をしたボスニア・ヘルツェゴヴィナ代表と、
メインスタンドを見もせずに立ち去った日本代表・・・。
どっちが真のSAMURAIだったのだろうか・・・。

proudjapanese
スポンサーサイト

僕は今日、「エキサイト・ブログ」から「FC2・ブログ」に引越した。理由は・・・、特に無い!!まぁ、気分転換とでも書いておこう。まだ全然慣れない使用法だが、少しずつ頑張っていくつもりだ。最後に、エキサイト・ブログ・・・今まで・・・本当に・・・ありがと・・・う・・・

proudjapanese

小さな巨人・・・。日本語を使用した文法上の表現として、この形容詞と名詞の組み合わせは適切ではない。しかし、凄まじい能力を内に秘めた小柄な体格の偉人を称える時、これ以上適切な言葉はなくなる。僕は、その小さな巨人に会った事がある・・・。

漫画「巨人の星」では、オズマが星飛雄馬の事を「リトル・ジャイアント小さな巨人)」と称賛した。また「ドカベン」でも、エース里中投手が自らを「小さな巨人」と口にしている。彼らの共通点は、小柄な体格をした男性であるという事、スポーツ選手であるという事、そしてどんな障害をも退ける強靭な肉体と精神を併せ持っていたという事だ。彼らは日本の子供達に勇気と希望を与え、同時に野球界の繁栄にも一役買った。だが、飛雄馬や里中がフィクションという最大の武器を以ってしても太刀打ちできない相手が存在する。実在の英雄は、厳しい顔つきで氷上に姿を現した・・・。

清水宏保、北海道が生んだ日本を代表するスピードスケート短距離界の第一人者である。
幼稚園の時にスケートを始めた彼も、今月27日には32回目の誕生日を迎える。
2006年2月13日月曜日、その彼はトリノ・オリンピックという最高の舞台で、31歳最後の
スタートラインに立った。僕はその姿を、観客席から静かに見守っていた・・・。

清水選手1

↑レース前の清水選手の様子

1998年長野オリンピック、僕の青春時代に、彼は最も輝く色のメダルを首に下げた。その年から、世界距離別選手権500メートルで4連覇を達成。2002年のソルトレーク・オリンピックでは、同競技で銀メダルを獲得した。当時、清水選手に密着したテレビのドキュメンタリー番組を見た時、無酸素運動という壮絶なトレーニングを鬼の形相でこなす彼の姿が放送された。特別スケートに興味がなかった僕の目にもその光景は力強く映り、少なからず前を向いて必死に努力する事の重要さとその難しさを学んだ。そして2006年、年齢を重ねるに連れて衰えていく肉体、彼はその限界をも乗り越えオリンピックの出場権を手に入れたのだ。全盛期のような滑りはもうできるはずがない。「でも、でも清水ならっ!!」そう願う多くのスケートファンがオーヴァル・リンゴットに詰め掛けていた。僕もその内の一人であった事は言うまでもない・・・。

レースはあっと言う間に終わった。金メダル、銀メダル、銅メダルを獲得した三選手がそれぞれ表彰台に立った時、そこにかつての世界記録保持者・清水宏保の姿はなかった。日本人であれば、誰もがその光景を見て残念に思う事だろう。日本勢は及川選手の四位が最高で、メダルを獲得するには至らなかった。18位という残念な結果、メダルどころかトップ10に入る事すらできなかった無念、清水選手は静かにクールダウンをおこなった後、寂しそうにリンクから姿を消した・・・。

その後、観客がほとんどいなくなった会場内をカメラ片手にウロついていた僕は、偶然関係者用通路に入ってしまった。清水選手と直接言葉を交わす事ができたのは、そこで取材に応じていた彼が僕に気付き「応援していただいたのに、スイマセンでした」と声をかけてきてくれたからだ。僕はミーハーとしてのキャリアは長い。有名人に会う事が大好きで、今までも多くの著名人の方々と言葉を交わした経験がある。まして僕は関西人、相手から笑いの一つでも引き出せるだけの自信があった。だから彼と対面した時、言葉が詰まってしまった自分に驚いた。何と言ったら良いのかが全く浮かんでこなかったからだ・・・。「いえ、素晴らしい滑りでした!」と言うのは逆に失礼だと思ったし、寂しそうな表情を浮かべる競技後のアスリートに対し「残念でしたね」と言う訳にもいかなかった。「次、頑張ってください!」とエールを送ろうにも、彼の年齢を考えたらその言葉も口から出てはこなかった。だからといって、「お疲れ様でした」の一言はあまりに寂しすぎた。結局僕は、「いつも応援してますから」とだけ伝えたのだった。

清水選手2

↑快く記念撮影に応じてくれた清水選手だったが、やはり表情は最後まで晴れなかった・・・

小さな巨人・・・。日本語を使用した文法上の表現として、この形容詞と名詞の組み合わせは適切ではない。しかし、凄まじい能力を内に秘めた小柄な体格の偉人を称える時、これ以上適切な言葉はなくなる。「じゃあ、レース後の調整(トレーニング)があるんで」、そう言ってその場を後にした清水選手・・・。身長162センチという小柄な体格をしたスピードスケートのアスリート、彼はどんな障害をも退ける強靭な肉体と精神だけではなく、何よりも努力を惜しまない姿勢を持っていた。
僕はイタリアのトリノという街で、小さな巨人に出会った。

オリンピック

↑オリンピックには、実に様々なドラマがあった・・・

2006年2月13日の思い出
proudjapanese

2月12日日曜日(マンハイム→ミラノ)
午後11時38分、マンハイム発ミラノ行き夜行列車に乗車する。
車中泊。

2月13日月曜日(ミラノ→トリノ→ジェノヴァ)
午前2時頃、オッフェンブルク駅(ドイツ)で乗り込んできた警官から、パスポートに「ドイツ出国」のスタンプを押される。
陸路での出国でドイツ・スタンプを押されたのは初めての事だった。
本来ミラノ止まりの列車のはずが、オリンピック効果なのか、そのままトリノへ。
午前10時過ぎにトリノに到着。
スピードスケート男子500メートルを観るため、オーバル・リンゴット(スケート会場)に移動する。
正式なチケットオフィスに並び、当日券を定価(95ユーロ)で購入。
オリンピック・チケットの高額さに驚く。
15時半からレースを観戦。
残念ながら、日本人選手はあまり良い結果を得られなかった。
レース後、偶然に関係者用通路に入れた。
清水宏保選手と話す。
松岡修造を無視する。
トリノでの宿泊は無理だと分かっていたので、予定通りジェノヴァのユースホステルに移動。
ジェノヴァのユースホステル泊。
この日の祭り:スポーツの祭典、トリノ・冬季オリンピック(男子スピードスケート500メートル)

2月14日火曜日(ジェノヴァ→トリノ→ジェノヴァ)
朝からトリノへ移動。
再びオーバル・リンゴット(スケート会場)を訪れる。
定価では(高過ぎて)買えないと判断し、チケットをめぐり数人のダフ屋と値段交渉。
結局、チケットを余らせていた中国人旅行者から60ユーロで購入。
16時頃から、スピードスケート女子500メートルを観戦。
やはりこの日も、日本勢は残念ながらメダルに手が届かなかった。
レース後、故意に関係者用通路に侵入する。
大菅小百合選手に出会う。
近くで見ると、とてもキレイな女性だった。
良いバレンタインデーになったと感じる。
舞の海にシャッターを押させる。
夜、ジェノヴァに戻る。
ジェノヴァのユースホステル泊。
この日の祭り:スポーツの祭典、トリノ・冬季オリンピック(女子スピードスケート500メートル)

2月15日水曜日(ジェノヴァ→ニース→ジェノヴァ)
朝からフランスのニースに移動。
僕が持っていたインターレイル・パス(鉄道パス)にフランス領は含まれていなかったので、タダ乗りした。
ニースのカーニバルに参加する。
花のパレードを立見席(10ユーロ)で見学。
やはり予想通りニースの安宿は一杯だったため、夜ジェノヴァに戻る。
帰りもフランス領内は無賃乗車を決行。
ジェノヴァのユースホステル泊。
この日の祭り:ニースのカーニバル(花のパレード)

2月16日木曜日(ジェノヴァ→マントン→ヴェントイミグリア?)
昼過ぎにジェノヴァからマントンに到着。
やはりこの日もフランス領内はタダ乗りした。
マントンのカーニバル、レモン祭りに参加する。
レモンとオレンジで造られた彫像の展示に圧倒される。
夜のパレードも見学(展示会+パレード入場料14ユーロ)。
この日の夜行列車でヴェネツィアに移動予定だったが、満席のためフランスとイタリアの国境、Ventimiglia(ヴェントイミグリア?)で野宿を決行。
気候が穏やかな地域のため、快適な野宿ができた。
国境駅Ventimigliaのベンチ泊(寝袋未使用)。
この日の祭り:マントンのカーニバル(展示会+夜のパレード)

2月17日金曜日(ヴェントイミグリア?→ヴェネツィア→ブレーシャ)
早朝5時前にミラノ経由でヴェネツィアへ移動。
カーニバルはこの日から始まると聞いていたのだが、あまり盛り上がっていなかった。
仮面を付け変装していた人々も多くはいなかった。
少しがっかりする。
しかし、「明日は土曜日なので盛り上がる」と駅員から聞いて期待する。
予想通りヴェネツィアでの宿泊は無理だと判断し、夜ブレーシャへ移動。
ブレーシャの安宿「ALBERGO SOLFERINO」泊。
この日の祭り:ヴェネツィアのカーニバル

2月18日土曜日(ブレーシャ→ヴェネツィア→バーニャカヴァッロ)
昼から再びヴェネツィアへ移動。
この日の街は大盛り上がりだった。
仮面を購入(15ユーロ)し、即席の変装を施しカーニバルに参加。
美しき仮面美女たちに見惚れる。
完全に楽しむ。
インターネット・カフェの高額さに驚く(30分4ユーロ)。
この日もヴェネツィアでの宿泊は無理だと分かっていたので、前もって調べておいたバーニャカヴァッロのユースホステルに移動。
夜11時過ぎにバーニャカヴァッロに到着。
ユースホステルの扉に、3月1日まで閉鎖されていると記されていた。
ショックを受ける。
終電もなかったためどこにも移動できず、バーニャカヴァッロの(ショボイ)駅で予想外の野宿を決行。
深夜、寒さに凍える
バーニャカヴァッロ駅前のダンボール上で宿泊(寝袋使用)。
この日の祭り:ヴェネツィアのカーニバル

2月19日日曜日(バーニャカヴァッロ→ヴィアレッジョ→ミラノ→マンハイム)
悪夢の一夜を乗り切った後、ヴィアレッジョに移動。
昼過ぎに到着。
ヴィアレッジョのカーニバルに参加(11ユーロ)。
スケールの大きさにただただ驚く。
夕方、ミラノに移動。
そこから夜行列車でマンハイムに帰る。
車中泊。
この日の祭り:ヴィアレッジョのカーニバル

2月20日月曜日(ミラノ→マンハイム)
帰りは一度もパスポートチェックを受けなかった。
つまりパスポート上、現在僕はドイツに入国していない事になる。
「さて、これをどう利用してやろうか?」、そう考える。
朝7時過ぎ、2時間以上遅れてマンハイムに戻る。
いつも通り「Mannheim Hbf」の看板を写真に収めた時点で、「祭り巡りの旅~イタリア、フランス編~」の全日程が終了。
その足でバイトへ直行!!
深夜、悪友の部屋へ向う。

proudjapanese

「現在地」をチェックしてくれた方はもうお分かりだろうが、僕はまたしても一週間ほどマンハイムを留守にしていた。今回は観光旅行ではなく、ただ単に祭りを見に行ってきただけだが・・・。フランスのニースとマントン、イタリアのヴェネツィアとヴィアレッジョ、そしてスポーツの祭典トリノ・オリンピック・・・。僕は最高の一週間を過ごす事に成功した。年末に行ってきたエジプトや中東諸国に比べ、やはりヨーロッパは旅行しやすく、自分で定めた目標と計画をほぼ完璧に実行する事ができた。まぁ、予定外の野宿を強いられはしたが、それくらいは許容範囲だと思っている。ただ、予算だけはどうしてもかかってしまう。オリンピックの観戦チケットも異常に高額だった。だから、昨日の朝7時過ぎにマンハイムに戻った僕は、その足でバイト先に向った訳だ。そのため、旅行後の甘いコーヒーの味は、ついさっき悪友の部屋で味わった。いつもに比べ少し苦く感じたのは、どうやら悪友が入れてくれた砂糖の量がやや少なめだったという理由だけではなさそうだ。スムース過ぎる旅行、それはそれでちょっと淋しいものだ・・・。

proudjapanese

燃ぉぉぉえろよ、涙と、汗こそぉっ、オォォトコのロォォマァァァンー♪
俺もドンッとまた生きてやるぅぅぅ♪
これがぁ日本のぉっ、祭りぃぃだぁぁよぉぉぉ♪♪

(北島三郎の名曲「まつり」より引用)

と言う事で、いよいよ欧州の祭りの時期が近づいてきた。ヨーロッパのカーニバルは、開催される国や地域によって若干の違いはあるものの、大抵が「薔薇の月曜日(今年は2月27日)」前後の一週間に渡って行われる。この期間中は、老若男女問わずそれぞれが仮装を施し、観光客を含め一丸となって必死に騒ぐ。多種多彩なパレードや仮装行列、鳴り響く音楽、そして飛び交う紙吹雪・・・。こうして人々は、極寒という名の悪魔を追い払い、待ちに待った春の訪れを皆で祝うのだ。季節によって様々な顔を見せるヨーロッパ、中でもこの時期は僕を最も熱くさせる。ヴェネツィア(イタリア)、ニース(フランス)、ケルン(ドイツ)。さて、今年はどこに行こうかなぁ?


オリンピックがトリノ(イタリア)で開催中という事と、28日にサッカー日本代表の試合がドルトムント(ドイツ)であるという事・・・。この二つを考慮して計画を立てようと思っている。

proudjapanese

中東諸国において、鉄道という移動手段はあまり一般的ではない。
異常に少ない本数や、市街からかなり離れた場所にある駅、バスの倍以上かかる所要時間などが主な原因であると考えられる。
また、国の経済事情(運営費不足)からか設備の老朽化は明白で、車両に関してもとても快適と呼べるものではない。
よって、中東諸国における鉄道というものは、人々の移動手段としてではなく、あくまで貨物の運送用に存在するものだと考えた方が賢明だ。
・・・そんな事、僕は初めから知っていた。
でも・・・、いや、だからこそ、僕はアンマン(ヨルダン)~ダマスカス(シリア)間を鉄道で移動する事に決めたのだ。

ダマスカス1

↑アンマン駅(ヒジャース鉄道


2006年1月2日月曜日午前7時、僕は市街から車で20分ほど離れたアンマン駅に来ていた。
首都の中央駅としてはあまりにみすぼらしい佇まい、ここに来るまでにタクシーの運転手が散々迷ったのも無理はない。
かつてシリアからサウジアラビアまでを結んでいたヒジャース鉄道は、数年前からアンマン~ダマスカス間においてのみ旅客車も走らせるようになった。
月曜と木曜の午前8時発、この週2便の旅客車は、現時点(2006年2月8日現在)では外国人旅行者にも開放されている。
まぁ、外国人旅行者どころか、現地の利用客すら一人も見当たらなかったが・・・。
とりあえず切符を購入しようと駅構内に入った僕に、駅員らしき男は無言で人差し指を突き上げた。
二階・・・??
恐る恐る階段を上がって行くと、そこには数人のヨルダン警官が待ち構えていた。
しかし彼等によるパスポートチェックは意外に甘く、今までの経路やシリア入国ビザの確認、パレスチナ入国歴に関する簡単な質問など15分程度で終わるものだった。
その場で警官に一旦パスポートを預け、それと引き換えに受け取った書類を持って一階の窓口へ向う。
僕はそこで、ようやくダマスカスへの片道切符を入手できたという訳だ(ちなみに、預けたパスポートはヨルダンを出国した時点で返してもらえた)。

ダマスカス2

↑ヨルダン~シリア間を走る国際列車(ヒジャース鉄道


僕をシリアへと運ぶ列車は、予想通りそのほとんどが貨物用車両によって編成されていた。
人を乗せられるのは僅か二車両で、その内の一車両が旅客用、そしてもう一つはなんと警察用車両だった。
「何で警察用車両なんてあるんやろう??」
そんな疑問を抱えつつ、とりあえず僕は列車に乗り込んだ。
その直後、僕は新たに不思議な光景を目にした。
旅客車の窓ガラスが何枚か割れていたのだ。
それを駅員の内の一人が、淡々と新しいガラスにハメ変えていた。
「何で割れとったんやろ??」
木製の座席(ベンチ)に座った僕がそうこう悩んでいる間に、とうとう時計の針は午前8時をまわった。
こうしてアンマン発ダマスカス行きの列車(国境駅乗換)は、警察用車両に4人ものヨルダン警官を、旅客用車両には3人の駅員と一人の現地人乗客、そして一人の日本人観光客(僕)を乗せ、静かに走り出したのだった・・・。

ダマスカス3

↑木製の車内


「マグニチュードはいくつですか??」、思わずそう尋ねたくなるような強い揺れ・・・。
「大工事は近所迷惑です!!」、ついそう叫びたくなるほどの大騒音・・・。
なのに、「これってカブ??」と思うほど遅ぉーい走行スピード・・・。
出発して何分も経たない内に、自分が最悪の列車に乗った事を実感した。
更に、出発前から僕が抱いていた疑問も「恐怖体験」という形で一気に解決された。
スラム街に住む子供達による投石の来襲である。
せっかくハメ変えた新しい窓ガラスが無残に散っていく・・・。
その度に列車は一旦止まり、警官が数人がかりで悪ガキを追い払うのだ。
娯楽を知らないこの辺の子供達にとっては、週に2回通る列車に石を投げる事が唯一の楽しみらしい。
警察用車両の存在や窓ガラスが割れていた理由、それらの謎は全てこの一件により明白になった。
慣れた手つきでダンボールを貼り、割れた窓ガラスに応急処置を施す駅員A、愚痴を零しながらガラスの破片を掃き集める駅員B・・・。
少ない乗客に対して3名もの駅員が乗車していた事に対しても、僕はこの時初めて納得できた。
シリアに入国するまで続いたこのデンジャラスな鉄道の旅、確かに危険や恐怖も感じたには感じたが、僕にとっては忘れる事のできない楽しい思い出になった。
それはきっと、僕が生粋のMだからという理由だけではなさそうだ・・・。

ダマスカス4

↑窓ガラスを割られた旅客車


ダマスカス5

↑ダマスカス行き列車(シリア国鉄)


入国審査の後、国境駅でヨルダン警察と窓ガラスの割れた車両に別れを告げ、僕はそこからダマスカス行きの列車に乗り換えた。
やはり一両編成のボロい電車だったが、その車窓から眺めた砂漠でテントを張って暮らす人々の生活、それは欧州や僕の母国では決して見る事のできない光景だったと思う。
ヨルダンからシリアに入国した直後の変化も興味深かった。
車窓から見える子供達の表情が一変したのだ。
シリア側では、列車に石を投げたりする子供は一人もいなかった。
線路沿いに並び、みんな笑顔で手を振っていた。
そのギャップは実に印象的だった。
それから面白かった事がもう一つ、それは踏切通過時に車を優先させる事だ。
遮断機や信号なんて物は当然存在しない。
踏切で車が通っている時は、電車が停止して車が行き過ぎるのを待つ。
また、線路上にちょっとでも大きな石があると、その度に停止して駅員がそれを撤去する。
まぁ、当然時間通りに到着するはずはない。
僕が乗った時は16時間以上遅れた。
8時間で着く予定だったが、24時間以上かかった(夜は駅員達と仮眠室で一夜を過ごした)・・・。
ダマスカス到着まで続いたこのノンビリ(過ぎ)鉄道の旅は、確かに苛立ちや焦りも感じたには感じたが、僕にとっては忘れる事のできない楽しい思い出になった。
それもきっと、僕が生粋のMだからという理由だけではなさそうだ・・・。

ダマスカス6

↑ゆっくり、ゆっくり進みます。


中東諸国において、鉄道という移動手段はあまり一般的ではない。
異常に少ない本数や、市街からかなり離れた場所にある駅、バスの倍以上かかる所要時間などが主な原因であると考えられる。
また、国の経済事情(運営費不足)からか設備の老朽化は明白で、車両に関してもとても快適と呼べるものではない。
更に付け加えると、無邪気な子供達の攻撃によって少なからず自分の身に危険が生じる。
故障などのアクシデントにより信じられないほど遅れる事もよくある。
よって、中東諸国における鉄道というものは、人々の移動手段としてではなく、あくまで貨物の運送用に存在するものだと考えた方が賢明だ。
それでも僕にとっては、「また乗りたい!」と思えるほど良い思い出になった。
もちろんそれも、僕が生粋のMだからという理由だけではない。
ヒジャース鉄道、是非一度お試しいただきたい。

ダマスカス7

↑シリアの車窓から


2006年1月2日・3日の思い出
proudjapanese

今日は華の日曜日、現在ドイツ時間は午前3時46分・・・。もう僕は若くない・・・。明後日には25回目の誕生日を迎える・・・。四捨五入したら30だ・・・。だから僕は、もう寝ることにした。おやすみなさい!

先週挑戦した不眠レースの最終記録は60時間40分でした。

proudjapanese

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。