THE TREE OF LIFE ~生命の木~

世界日記 (本編)


   
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僕は東京が嫌いだ。
理由は、僕が大阪人だから・・・。
東京タワーよりも通天閣の方が美しい塔であり、新世界の方が浅草よりも愛らしい下町だ。
阪神タイガースこそ世界最強球団であると信じ、読売新聞など便所紙だと思っている。
・・・しかし、そんな事を言いながら、僕はよく東京に遊びに行く。
去年の年末に一時帰国した際も、僕は都内に住む友人宅に一週間ほど滞在し、大都会を色々と観光させてもらった。
ドイツで知り合った友人二人に連れられ、東京タワーにも上ったし、六本木ヒルズにも足を運んだ。
世界の経済をリードする大都会の町並み、出玉還元率が高いスロット(パチンコ)店、すれ違うオシャレなトーキョー・ガールズ・・・悪くない。
よく記憶を整理してみると、特に東京で嫌な思いをした経験はなかった。
数年前に東京ドームで観戦したK-1グランプリ、歌舞伎町の夜、ヤキトリに東京バナナ・・・。
どれもこれも良い思い出ばかりだった。
まぁ、高校時代に一度だけお兄さん方から都会の洗礼を受けた事はあったが・・・。
ただの東京コンプレックスだと気付きながらも、やはり僕は母国の首都を好きにはなれない。
しかし、嫌いな街を訪れてもそれなりに楽しむ才能が僕には備わっている。
やはり、僕は優秀だ。

2005年9月22日、僕はフランスのパリにいた。
三ヶ月ぶり四度目のパリ・・・、欧州の中で僕が最も忌み嫌う観光地の内の一つだ。
元々、行きたくも行くつもりもなかった。
ただ8月末に購入したインターレイル・パスの有効期限がもう一日残っていたのだ。
マンハイムから旅立ち、観光後その日の内に帰ってこれる欧州諸国となると、当然限られてくる。
「オルセー美術館に行きたい!絶対行きたい!」・・・こうして、日本から遊びにきていた頭の悪い女の子の一言によって、僕のおフランス行きが決定されたのである。

僕は美術館が嫌いだ。
理由は、僕が芸術に疎い人間だから・・・。
ミケランジェロの彫刻を鑑賞するよりも甘いモンブランを食べている方が癒やされるし、フランス美人の笑顔の方がモナ・リザよりも美しい。
サッカー観戦こそが世界最高の芸術鑑賞と信じ、美術館(博物館)などは公衆便所以上に退屈だと思っている。
しかし・・・、そんな事を言いながら、僕はよく美術館(博物館)に足を運ぶ。
サッカー博物館は勿論のこと、去年はバルセロナのピカソ美術館を訪ねた。
今年もフィレンツェのウッフィツィ美術館に行ってきた。
歴史の悲惨さを今に伝えるポーランドのオシフィエンチム博物館(アウシュビッツ強制収容所)に関しては、二年連続で訪問している。
よく記憶を整理してみると、特に美術館(博物館)で嫌な思いをした経験はなかった。
自分で考えている以上に、実は勉強になっている事が多い。
今回は、彼女がオルセー美術館に行っている間、僕はルーヴル美術館を訪ねてみた。

パリ1

↑フランスが誇るルーヴル美術館



入館直後、僕は悩んだ。
想像以上に重苦しい雰囲気・・・。
身なりの良い文化人や大量の観光客が、僕が名前も知らない芸術家の作品を静かに、そして楽しそうに眺めていたのだ。
悔しいが、あんな優雅な楽しみ方は僕には出来ない・・・。
僕は必死になって自分なりの楽しみ方を模索した。
興味のない分野において自らを奮い立たせるには、ある目標を掲げ、自分に試練を与えるのが一番有効だ。
そこで悩んだ末に僕が考え出した挑戦、「打倒警備員!ルーヴル美術館内完全走破!」・・・。
入場口で入手した館内の案内書を片手に、写真付きで紹介されている作品(簡単に言えば有名な芸術作品)を全て周り、それらを写真に収めるというもの。
ミーハーの、ミーハーによる、ミーハーのためのラリー・ゲームである。
制限時間は彼女との待ち合わせまでの3時間半、ルーヴル美術館の広さを考えると、簡単な挑戦ではなかった・・・。

パリ2

↑瀕死の奴隷(ミケランジェロ作)



こうして始まった愚か極まりないラリー・ゲーム・・・。
幾つもの障害が僕の行くてを阻んだ。
その中で、最も手強かった障害は警備員の存在だったと言えるだろう。
作品の老化防止のためか、撮影禁止エリアの警備員達は皆、鋭い目つきで見張っていた。
ポケットからデジカメを取り出した瞬間、「ノン フォートー スィルブプレ!!」という叫び声が館内にこだまする。
言うまでもないが、これは・・・非常に恥ずかしい。
他の客の視線が一斉に無礼な東洋人に集中するからである。
羞恥プレー・・・、(僕はMだから)嫌いではないが・・・。
とりあえず「(撮影禁止だと)知らなかった」という意思を伝え、詫びを入れた後すぐにその場を離れる。
ここで学んだ事、警備員に感づかれない角度を一瞬で探し出し、さり気ない一連の流れの中でスムースに撮影を行わねばならないという事・・・。

警備員の威圧感を感じるのは、何も撮影禁止エリアの中だけではない。
広い館内を限られた時間内に観て周るため、廊下や階段は出来るだけ素早くパスしなくてはならない。
当然、随所で警備員から注意が入る。
撮影に比べると、警備員の怒りも、こっちが受ける恥ずかしさも穏やかだが、逆に時間と手間のロスになってしまう。
ここで学んだ事、廊下や階段はまるで競歩選手のように、静かながらもスピーディーに歩かなくてはならないという事・・・。

次に現れた障害は、中国人の団体観光客だった。
彼らはガイドという力強い武器を利用し、ピンポイントで各有名どころを占拠してしまうのだ。
しかもかなりしつこく、その場をなかなか離れない。
ガイドの説明が終わると、当然撮影タイムが始まる。
人数がハンパじゃないため、その時間がとにかく長い・・・。
しかし、日本人の僕ならではの対策法により、意外にあっさりその場を切り抜ける事が出来た。
ここで学んだ事、中国人になりすまし自ら団体に溶け込み、最高の撮影ポイントへ身を進めなくてはならないという事・・・(ついでに、同じ東洋人という事で、オバちゃんたちに自分と作品との写真を撮ってもらえればなおベター)。

パリ3

↑アフロディテ(ミロのヴィーナス)



様々な困難を乗り越えながら、僕は必死で芸術品を観てまわった。
しかしやはり、ここは世界でも有数の巨大美術館。
最大にして最強の障害は、時間だったのだろう。
とてもじゃないが、3時間半では不可能だった。
最上階をほとんど観る事が出来ずにタイム・オーバーを迎えてしまったのだ。
残念だが、今回は僕の負けである・・・。
こうして、彼女と合流した後、僕らはパリの街を数時間観光してからマンハイムに戻った。

やはり僕は、パリも美術館も好きにはなれない。
理由は、雰囲気・・・とでも言うのだろうか。
しかし、どのような状況であってもそれなりに楽しむ才能が僕には備わっている。
やはり僕は、優秀だ。

パリ4

↑ニューヨークではなく、パリの自由の女神



この旅行記では、話を面白くするため、大げさに脚色を加えて載せている。
あたかも自分の経験であるかのように書いてはいるが、「警備員に注意された」というのも、他人がそうされているのを目撃したにすぎない。
撮影禁止エリアでの撮影や、館内での非常識な行動は、個人としてだけでなく、日本人全体のイメージ・ダウンにつながる。
よって、ある程度のルールとマナーを守った上で、自分なりの楽しみ方を考え行動出来る人こそが、優秀な旅人であると思う。
でも、「モナ・リザの撮影くらいは・・・」とも思うのだが・・・。

2005年9月22日の思い出
proudjapanese

「あなたは神を信じますか?」
中学生の頃、下校途中に梅田駅(阪急電鉄)周辺で度々こういった質問を受けた。
某新興宗教団体の勧誘に対して、僕はキリスト教主義の学校に通っていたにも関わらず、常に「信じません」と答えてきた。
一度として神という存在をこの目で見た事がなかったからだ。
あれから十年以上の月日が流れ、現在の僕は宗教色が根強く残るヨーロッパの地で生活している。
しかし残念ながら、未だにイエスにも仏陀にもアラーにも出逢えていない。
宗教という極めて難しいテーマについては、何度も多国籍の友人達と語り合ったものの、やはり僕は神の存在を信じられずにいる。
今回は、そんな僕が神の存在を確かめに行ったイタリア旅行の話をしたいと思う。

イタリアのブレーシャ、確かに神様はそこにいた・・・。
ブルーの聖衣を身に纏い、数々の奇跡を起こし人々に勇気と感動を与えてきた神様が、僕の目の前にいた。
パレスチナでもインドでもメッカでもなく、彼は聖地「MARIO RIGAMONTI スタジアム」に降り立った。
生きた伝説「ロベルト・バッジォ」、言わずと知れたサッカー界のスーパースターである。
十代の頃よりその天才的な才能を発揮し、世界最高峰リーグ・セリエAの中で「ファンタジスタ」の名をほしいままにしてきた。
針の穴をも通すスルーパス、すり抜けるようなドリブル、そしてどんな窮地に陥っても諦めずゴールを見据える視線・・・。
一体どれだけのサッカーファンが彼に魅了されたことだろうか。
ポニーテールを揺らしながらフィールドを駆け抜けるアズーリの英雄、人々は彼のことを「サッカーの神様」と呼んだ・・・。

バッジォ1

↑神様の笑顔



2004年5月9日日曜日、今期限りでの引退を表明していたサッカーの神様は、ホーム最終節に笑顔で登場した。
試合前、地元サポーターに手を振って挨拶するバッジォ・・・。
青に白いV字のユニフォーム、背負い慣れたエースナンバーが輝いていた。
一人25ユーロの自由席に一時間前から陣取っていた僕は、あまりの感動に涙を抑えるのが精一杯だった。
ウォーミングアップ中も鳴り止まない「バッジォ・コール」、彼がどれほど愛されているかが伝わってきた。
スターティング・イレブンを紹介するアナウンスが流れ出すと、ファンは一斉に立ち上がり、入場口で配られたバッジォの青いミニ・ポスターを掲げ上げた。
そして、常に彼を支え続けてきたサポーターによる力強い応援歌が鳴り響く。
その迫力、温もり、そして一体感・・・とても言葉で表現できるものではない。
僕もあの場で彼等と同じ時間を共有できたこと、今でも光栄に思っている。
そして、サッカーの神様にとって地元最後のキックオフ・ホイッスルが鳴った・・・。

バッジォ2

↑バッジォ・ポスターを掲げ上げる地元サポーター



1990年ワールドカップ・イタリア大会の準決勝、開催国イタリアは優勝候補アルゼンチン相手に死闘を演じた。
サッカー選手「ロベルト・バッジォ」は、その戦場の中にいた。
ツートップの一角を担った彼は、力強いドリブルで何人ものディフェンダーを置き去りにし、強烈なシュートで相手ゴールを脅かした。
小学生だった僕が初めて見たバッジォの勇姿・・・。
37歳になった彼に、あの時の様なパワフルなプレーは・・・もう出来ない。
しかし、地元で有終の美を飾ろうと必死で攻め上がる彼の姿は、僕の目には当時以上に力強く映った。
ブレーシャ対ラツィオ、サッカーの神様にとっての地元最終試合は、ついに後半に突入した・・・。

バッジォ3

↑今も変わらぬ力強い攻め上がり



1994年ワールドカップ・アメリカ大会、苦しみながらもアズーリは決勝まで勝ち上がった。
イタリアの至宝「ロベルト・バッジォ」は、この大会で数々の奇跡を起こした。
エースナンバーを背負った彼は、巧みなドリブルで相手ディフェンダーの間を潜り抜け、正確なシュートを放ちゴールネットを揺らした。
暑さによって体力を奪われたイタリア代表がどんなに劣勢に立っていても、バッジォは幾度となくその窮地からチームを救い出した。
決勝トーナメントで対戦したナイジェリアとの試合が、その典型だったと言えるだろう。
試合終了の笛が鳴るまで絶対に勝負を捨てない彼の姿は、きっと多くの人々に勇気を与えたはずだ。
中学生だった僕が感動を覚えたバッジォの勇姿・・・。
37歳になった彼の膝では、あの時の様な鋭い切り返しは・・・もう出来ない。
しかし、地元サポーターに最後の勝利を捧げようと相手ゴールを見つめる彼の目は、当時以上の輝きを放っていた。
ブレーシャ対ラツィオ、サッカーの神様にとっての地元最終試合は、ついに終盤に差し掛かった・・・。

バッジォ4

↑ホーム最終節での勇姿



「ゴォォォーーール!!」
試合終了直前、勝負を決定付ける二点目のゴールがバッジォの右足から生まれた。
歓喜の雄叫びがスタジアム全体を覆う中、勝利を確信したチームメイトが一斉にキャプテンのもとに集う。
仲間に祝福されながら、サッカーの神様は満足気に人差し指をサポーター席に突き刺した。
・・・ここから数分間、僕は何があったのかをよく覚えていない。
恐らく、ただ号泣しながらひたすら彼の名前を叫んでいたのだろう。
こうしてサッカーの神様は、自らのゴールで地元最終試合に花を添えた・・・。

1998年ワールドカップ・フランス大会の準々決勝、開催国フランスを相手にアズーリは苦戦を強いられていた。
イタリアの切札「ロベルト・バッジォ」は、途中からこの試合に参加した。
ベテランとして代表に召集された彼は、大舞台慣れしたプレーで若いチームメートに喝を入れ、見せ場を作っては皆を奮い立たせた。
高校生だった僕が魅入ったバッジォの勇姿・・・。
37歳になり今期限りでの引退を表明した彼が、このフィールドでサッカーをすることは・・・もう二度とない。
しかし、地元最終試合を勝利で飾り、引退セレモニーで若いチームメイトに囲まれる彼の笑顔を見ていると、自然とフィールドの外から喝を入れるバッジォの姿が頭に浮かんできた。
そう、近い将来、ポニーテールの指導者として・・・。

バッジォ5

↑引退セレモニーでのバッジォの後姿



2004年5月9日日曜日、試合終了後に行われた引退セレモニー。
必勝の二文字とエースナンバーを背負い、地元ファンに最後の挨拶をするバッジォ。
二十年以上も酷使してきた右膝をかばいながら歩く彼の後姿、それを目の当たりにして感じたこと。
それは・・・彼が神様なんかではないということ。
一見華々しく見えた彼の現役生活だったが、それは決して順風満帆なものではなかった。
数々の移籍問題、それによって起こるファン同士の暴動騒ぎ・・・。
常に問題視された監督との衝突・・・。
マスコミによる過剰報道・・・。
度重なる右膝の故障、辛いリハビリとの二人三脚の日々・・・。
ワールドカップ三大会連続のPK戦による敗退・・・。
中でも94年アメリカ大会決勝で彼が放ったペナルティー・キック、下を向き静かについた溜息、僕は一生忘れる事が出来ない。
あらゆる苦しみに耐え、「無冠の帝王」と呼ばれてもなお、大好きなサッカーを愛する家族のために続けた男「ロベルト・バッジォ」・・・。
彼は「サッカーの神様」なんかではなく、ただ一人の「サッカー選手」であり、ただ一人の「」であり、そしてただ一人の「父親」だった。
次の週(5月16日)敵地で行われたミラン戦、サッカー選手「ロベルト・バッジォ」は途中交代という形で現役最後の試合に幕をおろした。
「しばらくは、家族とのんびり過ごしたいと思っています。」
引退後の記者会見でそう話した彼を見ていて、僕は涙が止まらなかった。
あれから一年以上が経過した今現在も、彼は夫「ロベルト・バッジォ」として、また父親「ロベルト・バッジォ」として、家族という名のフィールドを守り続けている。

バッジォ6

↑2004年5月16日、ロベルト・バッジォ現役引退の瞬間(途中交代)



「Glauben Sie an Gott?」
24歳になった僕は、極稀にマンハイムの街でこういった質問を受ける。
某新興宗教団体の勧誘に対し、僕はかつてキリスト教主義の学校に通っていたにも関わらず、常に「Nein! Ich glaube nicht an Gott!」と答えている。
やはり僕は、神の存在を信じることは出来ない。
あやふやな偶像なんかよりも、光り輝く力を持った生身の人間の姿を、僕はこの目で見てしまったのだから・・・。

2004年5月9日16日の思い出
proudjapanese

傷と共に貴重(?)な経験を胸に抱いたまま、僕は早朝ザグレブに到着した。
約一週間ぶりのザグレブ、大雨という最悪の天候のせいか、僕のテンションはどん底まで下がっていた。
溜まり溜まった疲労と表現しようのない疎外感、そして憂鬱・・・。
異国を旅する上で絶対感じずにはいられないこの三つの問題が、この時僕の全身を支配していた。
しかしそれも、もう少しの辛抱だ。
あとちょっとすれば、友人・Rさんがドイツからやって来る。
旅行中何度か彼とメールのやりとりをし、一緒にベオグラードに行く為、今日ここザグレブで合流することになっていたのだ。
母国語での会話、それはきっと今の僕を勇気づけてくれるだろう。
幸い(?)話の種には困らない。
この一週間で体験した様々な出来事を、面白おかしくRさんにブチ撒けよう。
そう、僕は誇り高き関西人、脚色に脚色を重ねてオーバーに伝える話術を持っている。
ザグレブ中央駅で、「つかみ」から「オチ」までの構成を一人黙々と考えている内に、時計の針はあっという間に進んでいった。

「隆浩く~ん」、懐かしいRさんの呼び声が僕の耳に届いた。
しかし会話をする間もなく、僕は彼に連れられるがまま駅構内の両替所に急いだ。
Rさんはトラブっていた・・・。
説明を聞くと、それは実に簡単な問題だった。
ドイツ国鉄が切符(ミュンヘン発ベオグラード行き)の発券をミスっていたのだ。
一本の列車で、いくつもの国境を越えて外国へ向かう。
それは日本では経験することの出来ないもので、同時に欧州旅行の醍醐味の一つでもある。
Rさんはベオグラード(セルビア・モンテネグロ)までの切符を、出発地であるマンハイム(ドイツ)で購入した。
発券された切符には、しっかりとベオグラード行きと記載されてあった。
しかし、問題はルート(経由)にあったのだ。
マンハイムからベオグラードに行くには、二つの行き方がある。
ミュンヘン→ザルツブルク→リュブリャーナ→ザグレブ→ベオグラード、そしてミュンヘン→ウィーン→ブダペスト→ベオグラードだ。
超える国境の数では後者の方が少ないのだが、所要時間は両方大差はない。
むしろ前者の方が乗り換えがない分、若干早いくらいだ。
Rさんは購入時にちゃんと経由国を伝えたらしいが、ドイツ国鉄の係員は別のルートを切符に記載してしまったのである。
どちらのルートも、値段は全く同じだ。
しかしクロアチア鉄道の車掌は、「経由国が違うのでこの切符は無効」だと主張した。
その差額を現地通貨で支払う為、Rさんは両替所に並んだのだ。
まぁ、この問題は、旅行後ドイツ国鉄が全額負担してくれた事で無事解決した。

ベオグラード行きの列車がくるまで、我々はショボイ街ザグレブを仕方なしに観光した。
見所は・・・特になかった。
聖マルコ教会ぐらいだったのではないだろうか。

ベオグラード1

↑ザグレブ唯一の見所(?)の聖マルコ教会



ベオグラード到着直前に車窓から見た風景が、セルビア・モンテネグロという国での最初の驚きだった。
いわゆるスラム街とでも言うのだろうか。
高層ビルが立ち並ぶ中、線路沿いにポッツリと現れた集落・・・。
屋根の上に無造作に置かれたタイヤの数々、寒いなかTシャツ一枚で生活する人々・・・。
この国が抱える問題の一部を垣間見れたような気がした。
激しい貧富の差、今後それらが少しずつ改善されることを願っている。

ベオグラード2

↑車窓から見た集落



第二の驚きは、この街に住む女性の美しさだった。
メイン・ストリートを歩いていて、ブスを全く見なかったのだ。
東欧や中欧諸国の混血によるものか、あるいは食生活に理由があるのだろうか・・・?
真相は定かではないが、中央駅構内にある両替所のお姉さん、そっけなく愛想のないその表情が僕のM魂に火を付けた。
この街で再確認したこと、・・・僕はキレイなお姉さんが大好きです!

第三の、そして最大の驚きは、巨大な廃墟だった。
1999年にNATO軍の空爆によって破壊されたビルが、今もそのままの姿で僕らに語りかけてきた。
「平和な世の中を!」・・・と。
この事に関しては、あまり多くを書くことは出来ない。
実際にそこに行って、自分の目で確かめてみないことには、なかなか理解出来ないだろうから・・・。

ベオグラード3

↑戦争の傷跡



ベオグラードというのは新しいながらも本当に良い街で、ドナウ・サヴァ川などの自然やカレメグダン公園などの歴史を感じさせる見所も(少ないが)存在する。
しかし僕がそれらを知るようになるのは、二度目にこの地を訪れた時以降であった。
こうして、僕が最初にフヴァラ諸国を周遊した旅は、とりあえずここセルビア・モンテネグロで終わりをむかえ、ハンガリー経由でドイツに戻った。
ブダペストとウィーンを(ちょこっと)観光した後、住み慣れたマンハイムに帰る電車の中で、僕はRさんにしっかりと面白トークを聞いてもらった。
その結果、「またいつか周ってみたいものですね、フヴァラ諸国!」という結論に至った・・・。

「どこが一番よかったですか?」
ヨーロッパを旅するようになってから、急に増えた質問がこれである。
しかし、この質問に答えを出すのは困難だ。
当然人にはそれぞれの好みや美的感覚があり、「一番良い」というものを一言で片づけるのは不可能だからだ。
したがって、僕はいつも「一番良い所」ではなく「一番多く訪れている所」を答えとして挙げている。
それが・・・フヴァラ諸国だ。
2005年11月16日現在、僕はこの魅力溢れるフヴァラ諸国を計5度訪れている・・・。

2004年10月10日~13日の思い出
proudjapanese

サラエヴォの夜、僕はアルバムに貼られた何枚もの写真に目を通していた。
弾力のないソファに座らされ、苦いトルコ・コーヒーを片手にただひたすらページをめくった。
警察という国家権力から僕を救い出してくれた恩人が、所々で写真に解説を加える。
二次元の世界でそれぞれポーズをキメる同郷のモデル達は、皆満面の笑みで僕を迎えてくれた。
そのおかげで、入国時の嫌な記憶が、僅かだが確実に薄らいでいくのを感じた。
それが、この後発生する嵐の前の静けさである事など、・・・一体誰が予想できただろうか。
街の中心から大分離れた古汚いアパートの一室、外壁には無数の銃痕が生々しく残っていた・・・。

ドブロヴニクからバスでボスニア・ヘルツェゴヴィナに入国した僕だったが、首都サラエヴォに着いてすぐ警察署に連行された。
そうだ、僕は逮捕されたのだ。
人生で初めて味わった手錠の重み、薄暗い取調室、そして異国の警察の威圧感・・・。
自分が通った経路や今後の予定、入国の目的等を僕は必死で説明した。
幸い取調官はドイツ語が話せ、言葉の面ではなんとか互いの主張が理解できた。
しかし僕が何を言っても、相手は「Deine Einreise ist illegal!!」の一点張りで、全く聞く耳を持ってはくれなかった。
どうやら、罪名は「不法入国」らしい。
この後一時間ほど続いた話し合いは、交わることなく平行線を辿った。
「Buerge」・・・保証人(この状況では身元引受人)、半ば呆れ果てたような表情を浮かべながら、取調官の口からついにこの単語が飛び出した。
つまりこの国に滞在する二日の間、僕の身元を保証してくれる人間が必要だというのだ。
「馬鹿ですか?!サラエヴォに僕の知り合いがおる訳ないやろ!!」そう思った(が、当然口には出さなかった)。
・・・しかし、僕はここである事を思い出した。
ドブロヴニクでプライベート・ルームの女主人から手渡された一枚のメモの事を。
確かそこにはサラエヴォで働く女性の電話番号が書かれていたはずだ。
僕はすぐさまそのメモを提出し、彼女に助けを求めることにしたのだった。
しばらくしてから、一人の細い白人女性が迎えにきた。
これが、僕と彼女との最初の出逢いだった。
見ず知らずの日本人に救いの手を差し伸べてくれた女性の名はヤスナ、彼女がいなければ僕は一体どうなっていただろう。
ここサラエヴォでプライベート・ルームを営む自称29歳の独身女性、それは釈放後交わした自己紹介によって明らかになった。
どう見ても外見は僕のオカンと同世代だったのだが・・・、そんなことはこの時の僕にはどうでも良かった。
やたらとキスをしてくる馴れ馴れしいオバハンだったが、彼女が僕を救ってくれた事に変わりはないのだから・・・我慢していた。

ヤスナが経営する一泊5ユーロのプライベート・ルーム、それは紛争の爪痕が残るアパートの最上階に存在した。
荷物を置いた後、彼女はすぐにコーヒーを淹れてくれた。
同時に渡された一冊のアルバム、それは日本人男性の写真のみで構成されている物だった。
ヤスナと肩を組んで写る日本男児たちの笑顔、本当に最高の旅を満喫していったのだと・・・その時はそう思った。
写真観賞が一段落すると、僕はヤスナと共にいざサラエヴォ観光に出掛けた。

予想以上に、サラエヴォの旧市街は見応えがあった。
バシチャルシャ周辺の歴史地区はどことなく京都の香りに似ていて、非常に落ち着いて見学できたのを覚えている。
奇妙な英語で必死に説明してくれるヤスナ・・・。
第一次世界大戦の引金となったサラエヴォ事件、その舞台であるラティンスキー橋の説明の時、彼女が語った年号が僕の知っているものと食い違ったものの、一生懸命この街の事を説明してくれているのだと黙って聞くことにした。
驚いたのは、観光中に使った全ての費用を彼女が出してくれたことだった。
食事や交通費、入場料にお茶代、おまけにお土産まで買っていただいた。
本当に至れり尽くせりで、その日は最高のサラエヴォ観光を経験できた。
しかし次の日の僕は、ヤスナとではなく一人での街歩きを希望した。
それには勿論訳があり、それを語るにはあの「魔の一晩」の話をしなくてはならない・・・。

サラエヴォの夜、僕はアルバムに貼られた何枚もの写真に目を通していた。
弾力のないソファに座らされ、苦いトルコ・コーヒーを片手にただひたすらページをめくった。
警察という国家権力から僕を救い出してくれたヤスナが、所々で写真に解説を加える。
二次元の世界でそれぞれポーズをキメる同郷のモデル達は、皆満面の笑みで僕を迎えてくれた。
そのおかげで、入国時の嫌な記憶が、僅かだが確実に薄らいでいくのを感じた。
それが、この後発生する嵐の前の静けさである事など、・・・一体誰が予想できただろうか。
二冊目のアルバムを手渡された僕は、そこに整理された無数の写真を見て目を疑った。
若かりし頃のヤスナ自身の写真・・・。
水着姿やミニスカート、中にはセミヌードらしきものまで存在した。
それらが本当に本人であるかどうかよりも、その写真を元に強烈にモーションをかけてくる現在のヤスナに問題があった。
出遭った当初から何度も唇を奪われた僕だったが、舌まで入れようとする彼女の異常な行動に気付いた時点で、二泊を予定していたサラエヴォ滞在を一泊に変更したのだった。
ヤスナ家で過ごした「魔の一晩」・・・、その全てをここに書き記すことは出来ない。
このブログは僕が旅行記や日記などを記すために作成したものであって、決して官能小説を載せるためのものではないからだ。
街の中心から大分離れた古汚いアパートの一室、僕の心にも無数の銃痕が残ってしまった・・・。
次の夜、僕は傷心のまま夜行バスでザグレブ(クロアチア)に向かった・・・。↑・・・ヤスナさん

彼女が旅人の中では(ある理由で)有名なヤスナ(別名イワナ)であることを知ったのは、それから一月が過ぎた後だった。
でも、彼女が僕の恩人であることに変わりはない。
彼女にもちゃんと一言・・・フヴァラ!

ボスニア

↑9日にはサラエヴォでサッカーW杯予選の試合が行われた。



2004年10月8日・9日の思い出
proudjapanese

スプリットを朝8時に出発し、到着したのが12時半。
アドリア海沿岸の車窓を味わいながら、僕は遂にクロアチア最大の観光地ドブロヴニクにやってきた。
かつて貿易都市として栄えた歴史を持ち、古き良き時代の面影を残す旧市街は常に観光客で賑わっていると言う。
「アドリア海の真珠」と称されるこの街に行くのを、僕は心から楽しみにしていた。
しかしこの後、ある事件が僕の繊細な心を踏みにじることになる・・・。

旧市街から歩いて15分の広い一戸建て、事件はこのプライベート・ルームの一室で起こった。
交渉した時、女主人から三人部屋だとは聞いていた。
「現時点ではあなた一人だが、もしかすると相部屋になる可能性がある」と。
もちろん安いプライベート・ルーム、ドミトリーであることなんて驚かない。
だから僕は、当然のように了承した。
部屋に着いて一時間ほど経った時、二人の日本人女性が同部屋になると女主人から聞かされた。
「同郷ということで、お互い気を使わずに済むのではないか?」そんな配慮が含まれていたのだろう。
しかしその直後、あんな屈辱を受けようとは・・・。

この人と同じ部屋に泊まるのは絶対に嫌です!部屋を替えてください!直訳)」
やってきた二人の女性は、僕を見るなり女主人にそう抗議した。
お互い挨拶を交わす間もなく、同郷の誠実な男性(僕)がいる目の前でだ。
仏陀のように穏やかな僕も、あの時ばかりは怒りを抑えるのに苦労したものだ。
もし部屋を替えてくれないのなら、他の宿を探します!直訳)」
二人の糞尼は、なおもそう念を押した。
お互い挨拶を交わす間もなく、同郷の笑顔が素敵な美少年(僕)の目の前でだ。
聖母のように優しい僕も、あの時は握り締めた拳を抑えるのが精一杯だった。
失礼にも程がある、大体非常識だ!
安宿で異性と相部屋(ドミトリー)になるなんて、貧乏旅人にとっては当り前の事だろう?
それを、相手がいる目の前で「この人とは絶対に嫌!」だと?!
フザけるな、このボケ!!
人が黙っとったら調子に乗りおって、このアホが!!
ワレほんまにノーメイクでホラー映画に出したろか?!
あん?!
俺がお前等にナニかすると思うとんか?!
誰がお前等みたいな不細工ビッチ共に!!
まぁ、一人は確かに巨乳やったけど・・・って、俺も何を言うとんねん?!
礼儀知らずの日本女、死ね!
死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!
・・・すいません、取り乱しました。
ま、まぁとにかく、僕が本当に傷付いたという事だけはご理解いただけただろう。
ちなみに、結局僕が違う部屋(二人部屋)に移動した・・・。

気を取り直そうと、僕はその後すぐに旧市街に向かった。
ドブロヴニク、大変美しい街だったと思う。
街を取り囲む城壁(遊歩道)からの眺め、プラツァ通り(中央通り)周辺と入り組んだ小路とのギャップ、そして大聖堂などの歴史的建造物。
レストランで口にした魚介類の味は最低だったものの、時間があれば長期で滞在するのも悪くないと思ったほどだ。
昼間の忌々しい事件を忘れさせるまでには至らなかったが、フヴァラ諸国随一の観光地、その魅力はなんとか理解できたような気がする。

翌日の早朝、女主人がある東洋人女性を連れて僕の部屋にやってきた。
「この子が相部屋でも構わないか?」と尋ねてきたので、僕は快く了承した。
同郷の馬鹿娘と相反して、感じの良い韓国人女性だった。
大学を卒業して、今は世界中を旅しているという。
二日目の観光は旧市街と海岸沿いを中心に、その韓国人女性と一緒に周った。
夕方、ヨン様などのしょうもないテーマで盛り上がっていると、突然部屋に女主人が訪ねてきた。
彼女は彼女なりに昨日の一件を気にしていたらしく、僕が相部屋になった韓国人女性と仲良くやっているかどうか様子を見にきたのだった。
僕が問題がない事を告げると、女主人は僕ら二人をスルジ山に連れて行ってくれた。
年代物のベンツの乗り心地はとても快適とは言えなかったが、山頂から眺める「アドリア海の真珠」は最高だった。
帰りの車内で、僕が明日ボスニア・ヘルツェゴヴィナに向かう事を話すと、女主人はある一枚のメモを手渡した。
そこには何やら名前と住所、そして電話番号が書かれていた。
「ヤスナ」・・・。
女主人が言うには、その人はサラエヴォでプライベート・ルームを経営しているらしい。
まさかそのメモに書かれていた女性が、僕の人生を変えることになろうとは・・・、この時の僕には予想も出来なかった。
さぁ、明日はサラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)だ!

ドブロヴニク

↑「アドリア海の真珠」と称されるドブロヴニクの旧市街



2004年10月6日・7日の思い出
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リュブリャーナから夜行バスで約11時間、僕はクロアチアのスプリットに到着した。
バスを降りると同時に、数人の現地人が一斉に声をかけてくる。
プライベート・ルームの勧誘である。
ドイツを含めた西欧諸国では中々経験することのない安宿の勧誘、いつも僕の中欧旅行の一日は彼等との値段交渉から始まる。
旧ユーゴスラヴィアでは、英語よりもドイツ語を話す人がけっこう住んでいる。
その歴史背景からか、特に年配の方の中にはそういった人が多く見受けられた。
つまり僕にとっては、彼等との値段交渉に何の支障も生じない。
交渉の末、この日は1泊8ユーロの部屋にチェックインした。

この日は忙しかった。
荷物を部屋に置いた後、その足でスプリットの旧市街を見学。
大聖堂の塔から古代都市の町並みを一望した。
塔に上る途中、地元の若い学生達と交わしたやりとりが、今も僕の脳裏に焼き付いている。
コーラ(ペットボトル)を片手に階段を上がってきた東洋人をからかおうと、現地の(多分)女子高生達が後ろから僕にこう叫んだ。
Hey!! Always CokaCola??」・・・と。
僕は瞬時に「No reason!!」と返すことで、彼女達を爆笑の渦へと誘うことが出来た。
笑いのツボが読めない欧州人を、まさかあそこまで翻弄することが出来るとは・・・。
なんとか関西人としての面目は保てたというところか。
その後、宮殿(外観のみ)や市場などを見学した。
世界遺産にも登録されている古い港町、思った以上に楽しめたと思う。

クロアチア1

↑塔ではしゃぐ現地の女子高生



バスに40分ほど揺られて辿り着いたのは、トロギールという街だった。
スプリットから約20kmの所に位置する小さな島で、城壁に囲まれた島内には貴重な歴史的建造物が多く存在する。
バス停から少し歩くと小さな橋が見えた。
そこを渡ると、世界遺産の古都(古島)トロギールに入る。
観光客というよりも、地元の小・中学生による修学旅行客がほとんどだった。
一番の見所である聖ロヴロ教会は残念ながら工事中だったが、カフェでのんびり過ごす人々の笑顔を眺めているだけで、ついつい時計に目をやる回数が減っている事に気付いた。
島内の小路も実に味があり、その複雑な造りや雰囲気はどことなくイタリアのヴェネツィアに似ていた。
カメルレンゴの砦から眺めた真っ青なアドリア海、そしてトロギールの町並み、・・・圧倒されたのを覚えている。

クロアチア2

↑古都トロギールをバックに(カメルレンゴの砦より)



少々遅い昼食を採った後、僕はシベニクという本日最後の目的地へと向かった。
狙いはたった一つ、世界遺産の聖ヤコブ大聖堂を見るためだ。
この街は教会群を売りにする観光地で、上記の大聖堂以外にも多くの教会が存在する。
お目当ての聖ヤコブ大聖堂は、可愛らしい教会だった。
でもそれは正面から見た時の感想だ。
横から見ると印象が全く違い、ただただその大きさに驚いた。
意外だったのは、聖アンナ要塞から一望した眺め・・・。
旧市街と海とが絶妙にマッチしていて、僕に感動の一時を与えてくれた。

クロアチア3

↑聖ヤコブ大聖堂



一日に三つの世界遺産を急ぎ足で周った僕が、再びスプリットに戻ったのは午後8時頃だっただろう。
夕食をご馳走してくれたプライベート・ルームのご主人に、感謝の気持ちを伝えようと用いた一言・・・フヴァラ。
これが、僕が最初に口にしたフヴァラだった。
さぁ、明日はドブロブニクだ!

クロアチア4

↑聖アンナ要塞から眺めるシベニクの旧市街



2004年10月5日の思い出
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「どこが一番よかったですか?」
ヨーロッパを旅するようになってから、急に増えた質問がこれである。
しかし、この質問に答えを出すのは困難だ。
当然人にはそれぞれの好みや美的感覚があり、「一番良い」というものを一言で片づけるのは不可能だからだ。
したがって、僕はいつも「一番良い所」ではなく「一番多く訪れている所」を答えとして挙げている。
それが・・・フヴァラ諸国だ。

フヴァラ諸国・・・。
物価の高いヨーロッパの中で、比較的低予算で楽しめる旧ユーゴスラヴィア諸国のことを、敬意と感謝の気持ちを込めて(勝手に)こう呼んでいる。
記憶に新しい民族紛争によってその大部分が破壊されたものの、今でも西欧に負けない様々な文化・自然遺産が多く残っている。
スロヴェニア、クロアチア、セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてマケドニア・・・。
以上五つの国からなるフヴァラ諸国には、それぞれ違った魅力が存在する。
若干治安の悪さが指摘されてはいるが、旅行者としてモラルある行動をとっている限り特に問題はないだろう。
今回は、初めてフヴァラ諸国を周遊した時の思い出を、順に書き記していこうと思う。

初めて訪れたフヴァラ諸国は、クロアチアだった。
ミュンヘンから夜行列車に乗り、一気にザグレブへ。
しかし天候も悪く町並みもイマイチだったため、その日の内にスロヴェニアのリュブリャーナに移動した。
リュブリャーナは、フヴァラ諸国の中で最も西欧に近い街(地理的にも文化的にも)と言えるだろう。
予想通り小規模な街ではあったが、中心地のプレシェーレン広場周辺には三本橋やフランシスコ教会などの見所があり、僕のような東洋人旅人を飽きさせるような所ではなかった。
まぁ、リュブリャーナ城から見下ろす町並みは、ガイドブックに書かれていたほどでもなかったが・・・。
小柄な街とは対照的に、ユースホステルは随分と立派な建物だった。
その事からも、この街に魅了される旅行者の多さが感じ取れた。
竜の橋から眺めるリュブリャニツァ川、そこには川に面する美しい建物と、地元の人々の安堵感が映し出されている。

ちなみに「フヴァラ」とは、マケドニアを除く四カ国内で「ありがとう」を意味する言葉だ。
さぁ、明日はスプリット(クロアチア)だ!

スロヴェニア

↑竜の橋



2004年10月4日の思い出
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去年春に行ったスペイン旅行、当初は「サッカー」というテーマを基に、バルセロナ→マドリッド→グラナダ→ヴァレンシア→バルセロナと周遊する予定だった。
しかしすっかりカタルーニャに魅了された僕は、全日程の12日間ずっとバルセロナに滞在してしまったのである。
そう、途中の2日間を除いては・・・。

3月19日・20日、この日だけは僕はヴァレンシアにいた。
カタルーニャ一筋だった僕が、ヴァレンシアに浮気してしまった理由は一つしかない。
スペイン三大祭りの一つ、ラス・ファジャスサン・ホセの火祭り)を見るためだ。
毎年3月12日から19日まで行われ、期間中ヴァレンシアの町は大小様々なファジャ(張り子の人形)で飾り付けされる。
民族衣装を着た美しい女性達によるパレード、鳴り響く華やかな民族音楽、そしてユーモアたっぷりの個性豊かなファジャの数々。
大通りは人でいっぱいだったが、それでも世界的に有名な祭りを楽しむことが出来た。
クライマックスは19日の夜、0時になると一斉にファジャに火が放たれる。
何ヶ月もかけて作り上げたファジャが、わずか数分で灰になってしまうのだ。
町のあちこちで炎が上がり出した。
煙のせいで若干息苦しくはあったが、街中で次々に人形が燃えて行く光景なんてものは、ここでしか見れないだろうと思い我慢した。
なによりも、暗闇の中で灯に照らされるスペイン美人の笑顔が、僕を癒してくれた。
夜中1時には、市役所広場にある巨大ファジャも炎に包まれた。
その迫力は、とても言葉で表せるものではない。
活気溢れるラス・ファジャス、本当に訪れて良かったと思った。
カメラを片手に祭りの最後を見届けた僕は、とりあえず駅に向かった。
宿が取れず、野宿をしなくてはならなかったからだ。
僕は、ボロかばんを枕に駅で眠りについた。

ファジャ1

↑市役所広場の巨大ファジャ(着火前)

ファジャ2

↑市役所広場の巨大ファジャ(着火後)



目が覚めたのは朝7時過ぎ、幸い荷物は何もなくなっていなかった。
小汚い東洋人から奪う物など何もないということか。
その後、街中に戻った僕が目にしたのは、灰とゴミにまみれた無残な風景だった。
まぁ、祭りの翌日というのはこんなものだろう。
ラス・ファジャスは終わったが、この祭りには「結果」がある。
全ての人形は燃やされてしまうわけだが、一週間の展示期間中の人気投票によって、一つだけそれを免れる。
つまり600以上あるものの中で、優勝ファジャだけが火祭り博物館に展示されることになるのだ。
僕はひたすら歩き回り、その栄誉ある優勝ファジャを探した。
そして、ついに見つけた。
聖母マリアをイメージした巨大な人形・・・。
「立派なファジャだ」と感動したのを覚えている。
2004年度の最高傑作と記念撮影をする地元民や観光客たち・・・。
祭りっていうのは、いいものだ。

ファジャ3

↑2004年度の優勝ファジャ



旅行後調べた結果、この時僕が優勝ファジャだと思い込んだ人形は、実はそうではなかった事が判明した。
同時に、僕がこの年の優勝ファジャを見落としてしまった事も・・・。

2004年3月19日・20日の思い出
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1926年、市電にはねられて命を落とした時、あまりにみすぼらしいその服装から、彼は浮浪者に間違えられたという。
カタルーニャ生まれの天才建築家、アントニ・ガウディ・イ・コルネットにまつわる最後のエピソードである。

2004年春、行き先をスペインに決めた僕は、「スペイン・サッカーの旅」というテーマを掲げバルセロナに向かった。
自由気ままな一人旅とはいえ、出発前にはある程度の目的と、それに基づいた計画を立てておくのが基本だ。
それによって、無駄のない有意義な行動をとれるからである。
週末には試合を観戦したい。
世界のビッグネームが名を連ねるレアル・マドリッドや、孤高の天才・ロナウジーニョ率いるF.C.バルセロナなどの試合を。
平日はスタジアム見学ツアーだ。
五つ星スタジアムのカンプ・ノウと、そこに併設する博物館、時間があれば練習見学なんかもいいだろう。
この時僕は、そんなサッカー尽くしのプランしか立てていなかったのだが・・・。

3月12日金曜日、僕はバルセロナに到着した。
安宿にチェックインを済ませた後、街を歩いていて感じた違和感・・・。
ありとあらゆる所に黒い布が飾られていた。
「どんな意味があるのだろう?」そう思いながら歩いていると、大人数の集団が占拠する広場に出た。旗に書かれていた文字や、祈りを捧げる人々の姿から、それが先日マドリッドで発生したテロに対するデモであることが分かった。
いたる所で見かけたあの黒い布は喪章だったのだろう。
その日はカタルーニャ人の平和への想いに圧倒されたまま、僕は眠りについたのだった。

一週間が過ぎた後も、僕はまだバルセロナにいた。
本来の予定では、もうマドリッドに移動しているはずだったのだが・・・。
僕はこの街の雰囲気と、幻想的なガウディ建築に心奪われていた。
ガイドブックに載っていたいくつものガウディ建築を巡る毎日。
気が付けば、旅のテーマも「スペイン・サッカーの旅」から「カタルーニャ建築の旅」へと変わっていた。
正統派(?)旅人からすれば、本末転倒だと笑われるかもしれない。
しかし、僕に目的を変えさせるだけの魅力が、この街にはあったと思っている。

ジャッキー・チェン、サモハン・キンポー、ユン・ピョウ、若かりし頃の香港三羽烏がバルセロナを舞台に活躍するカンフー映画の超大作「スパルタンX」。
あの映画で、縦横無尽に動き回る香港三大スターを輝かせたのは、間違いなく背景を彩るカタルーニャ建築だった。
印象に残るワンシーンを思い浮かべながら街を歩くと、自然と笑みがこぼれてきた。
カタルーニャ建築の中には、ガウディだけでなく、ドメネク・イ・モンタネールの作品もある。
カタルーニャ音楽堂やサン・パウ病院などがその代表作だ。
サン・パウ病院、映画の中でユン・ピョウの父親が入院していた病院だ。
とても病院とは思えないような立派な建物で、「ここなら入院してみるのも悪くない」と思ってしまった。
バルセロナの良いところは、なにも建築物だけではない。
週末にカテドラル周辺で行われるカタルーニャの踊り「サルダーナ」、コロンブスの塔から見下ろす活気溢れる町並み、治安が悪いと噂されるランブラス通りも意外に居心地が良かった。
食事をする時にハズレを引かなかった事も良い思い出の一つだ。
タラゴナやモンセラットにも日帰りで行くことができた。
ラス・ファジャスという祭り目的で、途中2日だけヴァレンシアに浮気してしまったが、12日間カタルーニャを満喫した旅だったと思う。

ちなみに、サッカー観戦もしっかりやってきた。
レアル・マドリッドの試合(国王杯)をバルセロナで見ることができたのだ。
サラゴサ相手に負けはしたものの、フィーゴのドリブルやロベルト・カルロスの強烈な左足、ジダンのテクニックやベッカムの美顔などを拝むことはできた(ロナウドは欠場)。
F.C.バルセロナの試合もちゃんと観戦し、ロナウジーニョのゴールには興奮した。
しかし、この旅行を通じて一番印象に残ったのは、やはり個性的な「ガウディ建築」と「カタルーニャ人の平和への願い」だった。

1926年、市電にはねられて命を落とした時、あまりにみすぼらしいその服装から、彼は浮浪者に間違えられたという。
あれから80年近くが経過した今も、斬新で幻想的なガウディ建築はカタルーニャの人々の象徴として、世界の平和を見守っている。
二度と喪章を付ける日が来ないことを、心から願っている。

カサ・ミラ

喪章を付けた世界遺産、カサ・ミラ(ガウディ建築)



2004年3月12日~24日の思い出
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とある週末、僕は暇を持て余していた。
何もする事がなく、土日限定ひきこもりと化す決意を固めたその時、ドレスデン在住の友人から電話がかかってきた。
彼女は今から、フロイデンベルク(Freudenberg)というモノクロの小村に向かうと言う。
何かの雑誌でその村の写真を見た彼女は、前々から一度訪れてみたいと思っていたらしく、「時間があるなら一緒に行かないか?」という誘いの電話をよこしてきたわけだ。
こうして、退屈なMannheimの週末という地獄を彷徨っていた僕は、友人から垂らされた天国へと続く糸に飛び付いたのであった。

時間はあっても金がない・・・、僕がそのことに気付いたのはマンハイム中央駅で切符を購入しようとした時だった。
「何度乗り換えがあってもかまわない!鈍行で行こう!」僕はそう考えた。
目的地までの道のりは、マンハイム→フランクフルト→ギーセン→ズィーゲン→フロイデンベルク、所要時間は約5時間・・・。
さぁ、出発だ!!

マンハイムを出て約2時間が経過した頃、二度目の乗り換えを終えた僕はズィーゲンを目指していた。
ふと窓の外を眺めると、木製の建物で出来た集落が目に止まった。
そのほとんどの建物が白と黒のみで造られていた事から、友人が言っていた「モノクロの小村・フロイデンベルク」というイメージがある程度頭に浮かんだ。
ヨーロッパ諸国の中でも珍しい風景を見れたという意味では、ギーセン~ズィーゲン間の車窓は面白かったと思う。

ズィーゲンで友人と合流した僕は、モノクロの小村に向かうべくバスに乗り込んだ。
フロイデンベルクに着いたのは、時計の針が5時を示していた頃だっただろうか。
最も眺めの良いKurparkという高台に急いで上った僕達を、フロイデンベルクの町並みは快く迎え入れてくれた。
村を見下ろした瞬間、言葉にならないほど圧倒されたのを覚えている。
うまく表現出来ないが、「立体感のない二次元の風景」とでも書いておこう。
今まで見てきた数々の美しい風景とは一味違い、威圧感さえ感じさせる白黒の町並み・・・、僕は決して忘れることはないだろう。

その後、実際に村の中を探索した時、高台に面した壁以外を全てピンク色に塗っていた家が存在したのだが・・・、それは僕の胸の中だけにしまっておこう。

白黒の小村

↑高台から見たフロイデンベルクの町並み



2005年4月23日の思い出
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